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072 後藤ひとりは覚醒し、井芹仁菜は成長した

 先週の第10話の「ワンダーフォーゲル」、私は絶賛したけど、小うるさいロックの聴き手、しかも基準がブタの臓物を投げつけた時分のザ・スターリンの楽曲なのに、何で親子の和解の話を肯定するのかと、奇異に思ったかもしれません。私自身はだからこそ、ロックの話でロックに生きる道を見つけた女の子が、自分の父親の人間的な弱さ、理解の至らなさを知ってもなお、愛情だけは真実と知ってしまったら怒るに怒れない、許すしかない。そんな仁菜ちゃんの感情こそがごちゃごちゃした整理のつかなさという意味も含め、とんでもなくロックと思えたのです。
 それに絶縁は『宇宙よりも遠い場所』で既にやってる。私も履修済みと公言してるよりもい、当該の場面を私は爽快感を持ってみてました。しかしガルクラでそれ、しかも親子の絶縁を描くのはあまりにもロック過ぎないかと思えるのです。つまりバンド(現在)を取って家族(過去)を捨てる話はあまりにも単純、それこそギロチンに至るフランス革命の暗部を(論理的に)胚胎してやしないか? 友達と違い親子の関係は取り換え不能なんだから。
 それに脚本の花田十輝としても同じ手は使いたくなかったろうし、そして題材がロックという点でも似たネタはやりづらいと思ってる。何故ってロックは定義上、同じことをやりづらい表現(活動)だから。
 ロックは反抗、という考え方、思考がある。そこには反抗に晒される対象と。反抗の実体、そして犯行反抗の拠りどころになる思想がある。殆どの反抗は規模が小さいか、または一過性で「晒される対象」に深手を負わすことは出来ない。しかし少ない事例ながら大方の趨勢を一気に変えてしまう「事件」がそれぞれの分野に起こる。科学だったら量子論や(二つの)相対性理論、アニメだったら(間違いなく)ヤマトにガンダム。
 しかし一旦確立したらそれが権威になる。実際のファンはただ好きで聴いてるけど世間/社会が認めて祭り上げられると、(日本のアニメでも一時ジブリ至上主義が起きたように)当該分野で「その他」は世間的には邪魔な存在になる。しかしアニメでもロックでも趨勢が一つに収斂されるのは迷惑なだけで、勢い権威になった対象が攻撃目標、「反攻に晒される対象」になる。以上、私はロックを運動体として見たいのでした。
 実際、ガルクラでの井芹仁菜の四回のステージング、それぞれ違ってる。第一話の「空の箱」は一人語り、歌唱力は抜群だけど演奏してくれる桃香さんたち、通り過ぎる群衆を見てない。第三話の「声なき魚」ではマイクをスタンドから取る時、横目で桃香さんを見る。そもそもこの時の仁菜ちゃんの派手な衣装、観客を意識させるための桃香さんの策略。この時仁菜ちゃんの怒った表情、多分照れから出てる。第五話での「視界の隅 朽ちる音」ではしっかり観客のいる前を見て、空いている左腕の仕草で観客を煽ってる。多分カリスマのボーカル、井芹仁菜が誕生した瞬間。そして第七話「名もなき何もかも」では結構内省的だけど迫力あるボーカル。照明が灯ってからは観客の顔は見えてるはずだけど、俯き加減で無視して、多分振動としてだけ受け取っている。
 だから井芹仁菜が両親に対して棘が出にくくなるのも作劇としてもロックが題材のアニメとしても、ロックが変化を強いられる表現という意味からも私は納得できるのです。そして新しく小指(中指)を立てる対象は何か? 私は『タッチ』に代表される(健全な)青春マンガ、学生生活と想定してますが、今週の第11話が答えになると思ってます。(大塩高志)

追記 今回の執筆前に読んだnoteです。


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