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来るべき花田十輝論に向けて

 『ガールズバンドクライ』が面白い。それはたぶん、自分が花田十輝の作り出してきた磁場のもとでこれまで生きてきて、また今でもそこに囚われいるからだと思う。次号『Blue Lose』Vol.3.5では10年代特集の延長戦を行うつもりで、そこには花田十輝論を載せる予定でいる。諸事情(怠慢)につき延期に延期を重ねているが、悪いことばかりではない。というのは本作が放送されているからだ。本作はこれまで花田が目指していたことが集約され、そこからさらに飛躍しようとする意図が見える。そのためここでは考えを整理するという意味も込めて、『ガルクラ』、あるいはそれに連なる花田十輝が脚本を担当した諸作品について簡単に(そしてだいぶ雑に)記しておく。

・京都アニメーションとの関係について

 花田とバンドアニメを考える上で、やはり『けいおん!』(さらに言えば京アニ)との関係は外せない。彼の『ラブライブ!』以降顕在化する日常、あるいは「いま、ここ」への姿勢は明らかに『けいおん!』からの影響を受けている(そもそも、花田は『けいおん!』に脚本で参加している)。
 村上裕一の言葉を用いればそれは、偶然の一致によって世界を寿ぐ「確率的奇跡」についてであり、他方で「日常系」への批評的視線から語るのであれば遠景からのまなざし、あるいは「死者の目」についてである。『けいおん!』において「いま、ここ」の近景を寿ぐものは偶然の一致(さまざまな場所で指摘されるような、1話と最終話の「あんまり上手くないですね!」という言葉の一致)なのであり、あらかじめ遠景からの視点が織り込まれることで「終わりゆく日常」として規定されているからこそ逆説的に確かなものになる、生の一回性だ。花田は明確にこの影響を受けていると言える。
 花田がシリーズ構成を担当した京アニ作品は記憶にある限りだと『日常』、『中二病でも恋がしたい!』、『境界の彼方』、『響け!ユーフォニアム』[1]が挙げられるが、とりわけ『中二恋』と『境界の彼方』の二作品についてはその傾向が強い(『日常』ももちろんその名を冠している通り「日常系」に近しいものであるだろうが、原作からどれほど乖離しているのかわからないのでひとまずおいておく)。
 どちらの作品でも両親(特に、父)の存在はほとんど描かれないか、あらかじめ喪失している。日常を庇護する存在が描かれないことによって、古典的な「終わりなき日常(それは日常系に限らず、ラブコメであっても同じだと思う)」が描かれる。他方で、そこに六花や未来の持つ問題(それは〈死〉を含んでいる)を衝突させてもいる。それはつまり、「いま、ここ」をそれでも⚫︎ ⚫︎ ⚫︎ ⚫︎生きていくことが象徴的に描いているということでもある。花田脚本でこれまで最も潜在的に描かれ、語られてこなかったことは"それでも「いま、ここ」の一回性を寿ぎ、それを肯定して生きていく"という逆説性にある(というよりむしろ、そうすることでしか相対化される世界の中では一回性を実感することができない)。これは『ラブライブ!サンシャイン‼︎』と『ガールズバンドクライ』において克明に描かれるといってよい(よって後述する)。
 この時期においてすでに彼は「日常」の背後にそびえる前提が崩壊しつつあることに自覚的ではある。そのまめひとまず京アニ作品における花田の仕事は、いかにして近景しかないとされる「日常」が肯定されるのかというオーソドックスな問いを踏襲していると言えるだろう。

・『ラブライブ!』シリーズについて

 他方で花田が最も成功を収めているであろう作品として、『ラブライブ!』シリーズがある。本シリーズのアニメは『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』を除く三作品(『ラブライブ!』、『ラブライブ!サンシャイン‼︎』、『ラブライブ!スーパースター‼︎』[2])の脚本を花田が担当しているが、とりわけ『サンシャイン‼︎』では監督を酒井和男が務めており、『ガルクラ』とのつながりがより鮮明に見える。
 『ラブライブ!』シリーズで主眼に置かれるのは、「一回性」についてだ[3]。「いま、ここ」の物語がいかにして「私(たち)だけ」の物語として確かなものになりうるのか。この問いに対して『ラブライブ!』において花田が用いたのは極めて古典的なロジックだったように思う。卒業という逃れられない「終わり」があるからこそ、彼女らの「いま、ここ」の物語は固有性を持って一回きりの—刹那的な—物語になる。だからこそ彼女たちは終わらせることを選び取り(そうでなければ、固有のものになり得ないからだ)、この⚫︎ ⚫︎9人でいられたことそれ自体に確率的奇跡を見出す……そうしたロジックが、本作では採用されている。ゆえに彼女たちは、彼女たちの最後のライブで「いまが最高」というふうに歌うのだろう。
 『ラブライブ!』の自己実現至上主義的な側面はここにおいて必須の要素となる。世界は言われるまでもなく複数化していて、室内空間は綻びを見せ始めている。つまり彼女たちは否応なく世界と接続されてしまう⚫︎ ⚫︎ ⚫︎。その中でいかにして物語の固有性を手に入れるか考えた時、もはやオルタナティヴな場を作るといったような完全なデタッチメントが戦略的とはいえない[4]。ここで行われていることはある種の撤退戦だ。絶対に譲れないもののために、どこまでの撤退を許容するか。『ラブライブ!』における回答はおそらく、ゲームそれ自体には乗るということだった。
 次に『サンシャイン‼︎』のことを考えよう(ところで僕は『ラブライブ!』が語られる一方で本作が全く参照されていないことはもったいないと思っている。『サンシャイン‼︎』こそが『ガルクラ』に最も明確に連なるもののはずだからだ)。本作では『ラブライブ!』から更なる後退を強いられているが、その理由となるのがそのまま『ラブライブ!』の存在であることは興味深い。『サンシャイン‼︎』で、物語をはじめに駆動させた力はμ'sの存在だった。「ふつうの私に舞い降りた奇跡」こそがアキバの、大画面モニターに映るμ'sの映像だったのであり、主人公の高海千歌は彼女たちのようになりたいと志す[5]。彼女たちの通う高校に廃校の噂が持ち上がった時の、「μ'sと一緒だ!」という無邪気な言葉には、もはや無垢ゆえの残酷さすら感じられるかもしれない。
 他方でそれは、そのこと自体が彼女たちを縛る鎖にもなる。「μ'sのようになること」とはすなわち、オリジナルにはなれないということでもある。彼女たちは先に存在した物語をなぞるだけで、そこに彼女たちの一回性は存在していない。ここで明らかになるのはもはや室内空間は崩壊しているかどうかをおいて意味をなさなくなっており、そこかしこに同じような「いま、ここ」の物語が複製され続けているということだ。現代において室内空間といった内的な領域はもはや成り立たず(もちろんSNSの存在が少なからず影響しているのだろう)、誰も彼もが誰かの物語の複製であったり(それは昔からそうだったのかもしれないが、一層可視化されるようになった)、誰かの物語の内側に取り込まれてゆく。そこにあるのはすでに囲いが崩壊してしまい常に開かれている場所か、あるいは肥大しきった空間(要は内輪にしては人が多すぎるということだ)でしかない。個々人は常に複数化/相対化され、固有性は希薄になり続ける。
 このような前提に立ってなお『サンシャイン‼︎』が自己実現的な物語であると、自分には到底思われない。そもそも本作の主眼は、明確にそこには置かれていない。1期12話で千歌が「1番になりたいとか、誰かに勝ちたいとか、μ'sってそうじゃなかったんじゃないかな」と言うように、少なくとも彼女はμ'sをそのようなものと捉え、「輝く」ということばを「自由に走るってこと」であり、「全身全霊、何にもとらわれずに、自分たちの気持ちに従」うことだと考える。それはつまり、「ラブライブ(大会)」という競争のフォーマットに乗りながらもその中で勝利を志向するのではなく、確かな「私たちの物語」を手に入れるということになるだろう。
 だからこそ、本作の主題はそのような室内空間の無意味化に伴って、それでも自分たちの一回性を肯定できるのかという「(ポスト・)日常系」の延長線上に位置付けられる問いだ。花田は本作での結論を、「キセキ(奇跡=軌跡)」という点に見出す。室内空間の有無に限らず(もっとも、本作では象徴的に彼女たちの学校は「廃校」となり付近の学校へ統合される)、自分たちが駆け抜けてきた時間(軌跡)は少なくとも一回きりのものであるのだと。そうして「サンシャイン‼︎」の物語は、幕を閉じていく[6]

・『ガールズバンドクライ』について

 以上のことを踏まえて、改めて『ガルクラ』を考えてみたい。『ガルクラ』で最も鮮明に問われるのはやはり『サンシャイン‼︎』以後の世界であってもそれでも⚫︎ ⚫︎ ⚫︎ ⚫︎我々が確かな生の一回性を掴み取り、信じることができるのかということだろう。言ってしまえばそれは、室内空間なき「日常系」を仮構する試みでもある。もちろん『ガルクラ』は日常系とはいえないとする向きが多いだろう。けれども自分は、そのようにして本作を読んでみたい衝動に駆られる。それは恐らく、これまでの花田十輝の仕事がそうさせているのだと思う。
 もはや「私(たち)の物語」は常に複数化され、相対化される。「ラブライブ(大会)」での優勝といったような、それさえあれば「一回性」を確かめられるようなものは存在していない。室内空間はあらかじめ崩壊していて、僕たちは—あるいは彼女たちは—自分たちの生の一回性を容易に信じることができない。全てが確率的なものに収斂していく世界で、いかにして「確かなもの」を掴むのか。こうした問いは本作で最も前景化している。
 仁菜は室内空間としての学校からドロップアウトしている。それはいじめと、それに伴う父親との不和に由来するものなのだった。ひたすら撤退戦を継続し、室内空間すらも失ってしまった彼女が唯一守りたいものは恐らく、「私はまちがっていない」という意志でしかない。そう聞くと、これは仁菜が自身の正しさを証明するという彼女だけの、崇高な物語に聞こえるのかもしれない。
 けれどもそれは多分、「室内空間」という前提があってはじめて成立するものでもあったはずだ(事実『ラブライブ!』はそうしていたことを思い出したい)。作中では主人公・仁菜のコンプレックスやいじめといったトラウマすら、智やルパというそれ以上の苦しみを持つであろうメンバーによって相対化されてゆく。第7話で仁菜が「私、全然だ」という通り、それは相対的に耐えきれない苦しみでもなければ、彼女だけが持つ固有の苦しみでもないのかもしれない。だからこそ、『ガルクラ』は面白いのだという気がする。もはや「私(たち)だけの物語」とは成立し得ないとあきらめるのではなく、防壁すらない空間で、単純な競争のゲームに飲み込まれることなく(しかしながら完全に切り離されるのでもなく)、「私(たち)は間違っていない」のだと声を上げること。これこそが、少なくとも花田が描き続けてきた現在「日常系」に連なってきた系譜が持ちうる最善の生存戦略であるように、自分には見える。
 物語における遠景、(中景)、近景というのは、そのまま「大きな物語」、(中規模の物語?大きな非物語?)、「小さな物語」へとパラフレーズできるかもしれない。いわばそれは、物語のメタレベルの話でもある「私(たち)の物語」とは、家族や親といった中規模の物語の庇護下にありつつそれを隠したまま描かれてきた。そしてその上で遠景からの(大きな物語からの?)視線を見出すことによって「日常」の一回性を描き出してきた。
 最新10話で、仁菜は自身の親に決別、しかしそれは拒絶なのではなく優しい別れだ、する。それはそのまま、中景を切り離したことを意味してはいないか。つまりこの瞬間、彼女は新しい一歩を踏み出したのだ。これまで「終わりゆく日常」を価値づけていた遠景の視点はもはや存在し得ない。あらゆる視点は遠近法の中に位置づけられるというよりはむしろ、同じ平面上に表出しているからだ。すべての物語は規模の大小にかかわらず、等しく「物語」として受容される。だから「私(たち)の物語」に確からしさを与えてくれた視線は、もうない[7]。他方で「日常」を形作る室内空間や、それに庇護を与えていた中景としての「家族」の磁場から、仁菜はついに離れた。いま彼女にあるものは純然たる「近景」だけであり(もしかしたらそのことは「川崎」という郊外に意味を持たせているのかもしれない)、それでもなお、彼女は「間違っていない」と声を上げて、自分の物語の一回性を、確からしさをつかみ取ることができるのか。『ガルクラ』で僕がもっとも注視している点は、やはりそこになる。
 たぶん『ガルクラ』は2期をやるのだろうし、仮にその先があったとしてもシリーズ最終話では武道館でのライブを成功させるのだろう。恐らく僕たちはそこで、アンセムのように「雑踏、僕らの街」を聞くことになる(『ラブライブ!』シリーズでは大概そうだったからそうなるだろう、といったくらいの放言だが)。けれどもそこに、誰の目からも明らかな「成功」の証しはないだろう。その上で、仁菜はどのようにして自分の確からしさを掴むだろうか。近景しかなくなってしまった世界の中で、彼女たちの一回性を保証するものは、どこにあるのだろうか。
 答えは当然ながらわからない。わからないが少なくとも、そうした問いが現れ始めた時点で、日常(系)はたった今、全く異なる何かになろうとしているように自分には見える。本作はそうした系譜に連なっている。花田十輝がその変態を成し遂げるのか、あるいはその意志を注いだ別の誰かが成し遂げるのかももちろんわからない。さらに言えばそれが「奈落の底に落ちてるのか、大空へ向かって飛んだ瞬間なのか」、変化の先にあるものが希望なのか絶望なのかすらわからない。だがしかし、ただひとつ確かなことは、今や日常(系)はその地盤を失い、どこかで宙を舞っているということだ。日常(系)の新地平—少なくともその嚆矢—は、まさにいまここに現れている。

(付記)
 ここでは『宇宙よりも遠い場所』について論じられなかったが、これも隣接する作品であると思う。したがって最終的には本作も包含できる評論を志向したい。また『宇宙をかける少女』も関係して来そうではある(が見てないので早めに見たい)。
 あと本来、これとは別にイラストルックとか演出とかレイアウトの話もしたくはある。イラストルックと明日ちゃんの特効カットってもしかしたら同じような想像力なんじゃないかなって(これは完全に放言)。美的感覚がたぶんないので取り立てて綺麗なレイアウトがイマイチわかっていない可能性がある。現在鋭意勉強中……。

〈参考文献(もとい、なんとなく念頭に置いてる文章)〉


[1]『ユーフォ』についても簡単に考えよう。しばしば花田が自己実現至上主義的であると言われる際真っ先に槍玉に挙げられる本作だが、事実、自分もこの作品は少なからずそうした傾向が強いと思う。ただこれは、僕は花田が目指すものを制作していく過程の試作だったようにも思う(もっとも、少なからず原作との兼ね合いはあるのだろうが)。花田の脚本に自分が疑義を唱えたくなる作品は二つあるのだが、そのうち一つが本作だ(もう一つは『ラブライブ!スーパースター‼︎』である)。
[2]前述のとおり、『スーパースター‼︎』についてもやはり考える必要がある(こちらはオリジナルであるゆえ、余計そうだ)。この二作品についての評価は自分の中でもまだ固まっていないが、少なくとも花田が主眼に置いていることから大きく離れているとは感じない。特に『スーパースター‼︎』については、おそらくSNSをどう描くかという点がうまくいっていないように感じられる。これは『ガルクラ』もそうだが、花田はSNSについてそれをどのように評価するかという軸をまだ持っていないからなのではないかと考えている(というか、知りうる限りのあらゆるクリエイターがそれを持っていない)。
[3]言ってしまえば、かなり露骨に本シリーズには『けいおん!』への目配せがある。自分がこれを最も感じるのは双方の劇場版を比較した時だ(どこかにメモした気がしたのだが見つからないのでいずれ真面目に書く)。
[4]それは「廃校」というモチーフに現れている。これまで日常系を守っていた前提であるところの室内空間そのものが崩壊してしまうこと。作中で穂乃果やことりの母、あるいは絵里の祖母の母校であることが示唆されるように(ことりは違ったかも……)、そこにはおそらく歴史そのもののメタファーも包含されている。そうしたものが崩壊しつつありながらも危ういところで踏みとどまっていたことが、この時代の特質だったのかもしれない(この点は見田や大澤の議論を見ながら考える必要があるだろう)。
 それは翻って「廃校の阻止」を切り離すことがそのまま室内空間と歴史から切断されてしまうことを意味しているはずで、だからこそ撤退戦を志向しながら(自己実現的な競争のゲームに乗りながら)それを守る必要があるだろう。仮にそれを行わず、今の時代にベタに「日常」を描くというのは、ともすれば平板なものに映ってしまう感じとする。
[5]むろん、そこに「普通から特別へ」というともすれば稚拙な上昇志向を見出すことは容易だ。しかし本作で重要なのは、そうした「特別」への意識が早々に破棄され、「一回性」へと切り替わっていくことにある。本作でしばしば用いられる「輝き」という言葉は、当然まず一般的な競争の中における勝者といった意味を想起させるし、当初はそうした意味だっただろう。しかし2期13話タイトル「私たちの⚫︎ ⚫︎ ⚫︎ ⚫︎輝き」(強調筆者)から見られるように、本作ではそうした目標は、最終的に全く別の方向へとシフトしていく。
[6]『ラブライブ!』シリーズにおいて呈する疑義があるとすれば、それは「勝利」の必要性だろう。特に『サンシャイン‼︎』について顕著に現れる。仮に優勝できなくても、彼女たちは一回性の確からしさを掴むことはできたのだろうか。その軌跡は、果たして肯定されうるのだろうか。この問いに回答するものの一つとしておそらく、『サンシャイン‼︎』においてライバルとして登場するSaint Snowの存在はある。彼女たちは優勝候補と目されながらも、地方予選での失敗で敗退することになる。ただしあくまでライバルとして登場したがゆえに、本作で深入りされることはあまりない。これをさらに進展させたものとして『ガールズバンドクライ』を想定することも、本稿の意図の一つである。
[7]ここまでで想定されていた「死者の目」みたいなものはあると考えることも可能かもしれないが、ここで言いたいことは、そうした視線がもはや「遠景」にはなり得ず、ばらばらに切断されてしまっているということだ。もちろんそれは過去・現在・未来というレベルの“物語”すら共有されていないというのではなく、そうした連なりすら希薄になりつつあるという意味としてである。

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