【連載第9回 みんなの公園】公園を彩る花にも時代が宿る
花と言えば、梅
新元号「令和」ブームで注目を浴びる万葉集。「令和」は、梅の花を見て詠んだ詩歌が由来とされる。福岡県太宰府は梅の花で有名だが、これは太宰府に限った話ではない。京都の北野天満宮も梅の花で有名だし、ほかにも梅の花が有名な古刹は京都・奈良にたくさん存在する。いや、京都・奈良だけではなく、全国各地ににある。
実のところ江戸時代に入るまで、花といえば梅を指すぐらい、梅の人気は高かった。古都の京都や奈良で、梅がたくさん植えられているのはそのためだ。
現在、花見の花と言えば桜になる。もちろん、万葉集が詠まれた時代でも、桜は人気だっただろう。しかし、梅の人気には勝てなかった。梅の人気は江戸時代に入るまで変わらない。
庶民が花を楽しむまで
徳川家康が江戸に幕府を建て、江戸には多くの人が集まるようになる。そこには、当然ながら憩いのスペースも整備された。大名たちは暇潰しのために庭園づくりに勤しんだが、広大な敷地を所有することができない庶民は花を楽しむことができなかった。庶民が花を楽しむためには、屋敷地に足を運ばなけばならなかった。
庶民に開放されていた屋敷地で名高いのは、東京・墨田区にある向島百花園だろう。向島百花園は大名が所有する屋敷地ではなく、骨董商の屋敷地だった。その向島百花園は身分の低い町人でも料金を払えば立ち入ることができるように、一般開放された。
ここで花を愛でながら、そして鳥のさえずりに耳を澄ませながら、お茶を飲み、菓子をつまみ、みんなで歌い、時に踊ったかもしれない。向島百花園は一日楽しめる場でもあった。
百花園側も、ここが庶民の娯楽の場であることを心得ていた。当初は梅園だった向島百花園も、さまざまな花を取り揃える。そして「百花」の名前の通り、たくさんの花で来場者を楽しまるようになった。また、花だけではなく、草や木、築山、池なども整備。いつの間にか、向島百花園はさながら大名庭園と遜色ないものになっていた。
江戸時代の人気ナンバーワンはツツジ
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