女性とシャワーを浴びた

 インターン先の同僚に「ハイキングは好きか」と訊ねられ、「好き」と答えたことから、週末一緒にハイキングへ行くことになった。
 ただ、「好き」と言っても、じっさいにはハイキングというものに行ったことがあるわけでもなく、近いものでいえば小学生の頃の遠足でちょっとした山道を歩いたくらいだった。一般的にいうハイキングを遠足からの類推でイメージしてきた僕にとって、じつはそのハイキングが朝の四時集合で、二日がかりの行程かつ帰宅は日曜深夜と後々に聞かされた時には、いささかの戸惑いがないわけでもなかった。シャンプーだと思ってつけたらリンス―だったくらいの動揺。誘ってくれた同僚――キムティア――からよくよく話を聞けば、専用のシューズやトレッキングポールも準備した方がよいとのこと。さらに、夜はどこに寝るの? と訊けば、
「もちろんテントだよ」
 どうやら僕はハイキングというものについて、ボディーソープをシャンプーと思い込んでつかっていたくらいの間違いを犯していたらしい。
 
 ハイキング当日。キムティアの友人が十数人――全員ほぼ二十四、五歳の同学年――が集まり一台のマイクロバスで首都プノンペンから山へ向かった。
 早朝からの移動ということもあり、車内はとても静かだった。わけでもなく、ある子が突然歌い出したかと思えば、みんなでケラケラ笑い出し、気づけば側で爆睡する子が現れるというまるで大学生がサークル合宿にでも行くような乱痴気騒ぎだった。一番楽しいやつである。
 道中、隣の隣に座っていたキムティアが、なぜか僕に彼女の髪留めゴムを手渡してきた。
「私のこれずっと持ってて。いいから!」
 僕はその時ウトウトしていたので、どういう話の流れでそうなったかはわからないが、困った。ふつうにいらなかった。髪留めを受け取った僕は窓に手をかけて訊ねた。
「捨てていい?」
「ダメ!」
 キムティアは笑いながら僕の手首に髪留めをはめ、こうして持っていてと念を押す。僕とて持っている分には構わない。ただ手首には、巻きたくなかった。その茶色の髪留めはシリコーンでできたシュシュのような形状で、昔の受話器と子機をつなぐグルグルの電話線にも似ていた。シュシュとして髪を結うにはいいかもしれないけれど、手首に巻くとなるとどうも恰好がつかない。僕の手元を見たカンボジア人に「日本人肝いりのオシャレアイテム、固定電話みたい」などと心の内で揶揄されたらたまらない。僕はキムティアには見えないようそっと髪留めをポケットにしまった。 
 
 五時間程度の移動を経て、登山口に辿り着いた。そこで竹の棒をレンタルし、いよいよ山登りはスタートする。山道は比較的整備されていて、登りやすかった。陽気なガイドを先頭に、十数人の友達は抜きつ抜かれつ、駄弁りながらダラダラと山道を進んだ。
 足元には泥水、カーブを曲がれば反り立つ斜面、振り向けば眼下に広がる広大なジャングル、途中靴を脱いでザバザバ川渡り、などなど。初心者向けの山道でありながらとても起伏に富んだ地形で友達とわいわい進むには楽しい山だった。
 山頂の手前、ジャングルは一気に開け、一面には膝丈ほどの草に覆われた美しい緑の丘が広がった。初日の目的地であるテントベースに到着した。僕たちはここで一泊し、翌日山頂を目指す。
 時間も時間だったので、夕食前みんなでシャワーを浴び行くことになった。一部の子たちは手にタッパーや小さな片手鍋を持っていた。もうそこから怪しかった。
 僕は近くを歩いていたサッカー日本代表の長友佑都にそっくりなカンボジアン・ガイに我慢できず訊ねた。
「それ何に使うの?」
 長友は金属の弁当箱を上下に動かしならが、
「水をすくって、頭からかぶるんだよ」
 と今日のシャワーの実態を教えてくれた。まあ、山ならそういうこともあるか、僕は手酌で間に合うだろう、と考えた。
 そして道中、
「滝がある!」
 と陽気に叫んだ女子がいた。みんなで水の音がする方向へ行くと、森のなかを流れる渓流があった。僕の前を歩いていた五、六人の女性陣はそのままザバザバと川に突っ込むと腰を下ろす。それからタッパーで勢いよく水をすくって頭にかける。
 えっ、なにしてんの。  
 呆気に取られる僕にかまわず、女の子たちは結っていた髪をほどき、首を前に傾げながら肩に垂らした長髪を手で揉むようにして洗髪を始めた。
「あれ? これ、シャワー?」
 誰に言うわけでもなく川底に座り込んでいた女子たちに向かって訊ねると、一歳の子供を持つ母キレンが陽気に答えた。
「これがカンボジアンスタイルだよ。さあ、あなたもこっちに来て洗いなさい」
 そう言いながら、キレンは眼鏡を外し、目の前にあった小さな水の落ち込みに頭を突っ込んだ。岩と岩の間がちょうどすっぽりと頭が入る大きさで、とても髪が洗いやすそうだった。
「おお、おお、うおおお」僕は人目もはばからず露骨にうろたえ、声を発した。周囲のカンボジア人たちはそんな僕を見て、さも愉快げに笑った。服がびしょぬれになることも厭わぬみんなに「ゴー! カモン‼」とシャワーを勧められたが、僕は遠慮するよ、と断った。するとキレンがキレた。強いママさんよろしく「この腰抜けが!」とばかりに満面の笑みでタッパーを使って冷水をかけてきた。いくらカンボジアといえど、山頂付近は肌寒く山水をかけられようものならたちまち全身に極寒の苦しみが襲う。身体中が震え始める。そんな苦痛にもだえるなかで、ふと思い出すことがあった。僕のおばあちゃんはむかしタッパーの訪問販売をしていた。おばあちゃんは売り上げが日本一になったこともあるらしく、ひいき目なしに見てもすごい、自慢のおばあちゃんだ。そんなおばあちゃんは料理が大好きで、好きな言葉は圧力鍋。僕はおばあちゃんに何かしてあげたことなんてなかった。だからせめて新しい鍋でも買ってあげたいな……と思ったところで僕は気がついた。
 あれ? ふつうに走馬灯見てんじゃん。


 あれ、僕は何がしたかったんだっけ。
 そうか、メコン川で水切りがしたかったんだ!

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