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【目印を見つけるノート】128. どのように残すのか、記憶に残せるのか

⚫登校日に思ったこと

ちょうど1000年代が終わる頃、いま時分に、とある小学校を訪ねてみたことがあります。

通常ならば夏休みなので誰もいないだろうと思っていました。でも、そうではありませんでした。こどもがたくさんいました。

登校日だったのです。

「不審者だと思われませんか」と私は同行者に尋ねました。
「大丈夫、大丈夫」と同行者は答えました。意外とおおらかな方ですね。そのときは大丈夫でしたけれど、現在は厳しいかもしれません。

8月9日。
長崎市の小学校は登校日なのです。長崎市だけではなく、大村市や諫早市もそのようですね。もっとあるようにも思いますが、調べていなくてごめんなさい。
ただ、今年に限っては登校日は中止になっています。感染症の蔓延、早く終息してほしいですね。

その年の長崎行きは地元出身の同行者がいたので、被爆の遺構を案内してもらっていました。この日は小学校と山王神社に行きました。山王神社は「片足鳥居」、大きなクスノキがあるところですね。福山雅治さんが『クスノキ』という曲で歌っていらっしゃいます。

その長崎行き以降、長崎のモニュメントに興味を持って、本を買いました。
『原爆遺構 長崎の記憶』(海鳥社)です。

75年前の戦争で被害を受けたものを一部でも当時の状態で残している、いわゆる遺構はどんどんなくなっています。

例えば、東京大空襲の跡は言問橋や鎌倉橋のような橋、誰でも見られるところにあります。あまり知られていないかもしれません。

もっとも被害が甚大だった墨田区には慰霊堂やビル敷地内の遺構がところどころに見られますが、建物は……ないですね。
ただ、墨田区は防災用水を細かく配置していると聞いたことがあります。
それは関東大震災、東京大空襲の教訓を後世に残そうとする、人々の「記憶の遺構」なのだと思います。

犠牲になった方の多くは水を求めていました。

さて、私は長崎のとある小学校に行きましたが、『原爆遺構 長崎の記憶』によると1990年代以降、小学校の遺構はいくつも取り壊されました。「残してほしい」という強い市民の声はあったそうですが、いろいろな事情があるのだと思います。

遺構を残すことにもいろいろな声があるでしょう。
ただ、遺構を取り壊そうという時期は人々の記憶が薄れはじめるときと重なるようです。その分岐点でどのような道を採るのかということが重要になると思います。

でも、遺構があること自体が「あまり知られていないのではないか」と思うことがありますので、書いてみました。


今年はどうにもこうにもできませんが、
登校日は大切な「記憶の遺構」なのだと思います。

………………

ネットでも遺構の写真を探していました。
自分が行った小学校の写真もありました。被爆後数ヶ月の写真で、小学校はがれきになっていました。
私はその写真を見ていました。がれきを見ました。
がれきだと思っていた手前の部分に白骨がいくつも横たわっていました。

亡くなったまま、白骨になったのです。

1945年8月9日11時2分。
すべての犠牲になったみなさまに
合掌。

…………………

今日は他のコーナーはお休みします。

おがたさわ
(尾方佐羽)

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