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【目印を見つけるノート】62. ウミガメとミサゴの海

きのうは救急車の音が2回聞こえました。

まだ予断を許さない状況ですが、万全で柔軟なかたちを整え、音楽のライブやフェスの開催情報が入ってくるようになりました。

『中津川SOLAR BUDOKAN』(フェス)の開催告知です。
http://solarbudokan.com/2020/

例年も工夫されていますが、それとも比較できないほど、たくさんの工夫が必要になると思います。それでもたくさん考えて、舵を切ってくださる心意気に感動します。

私の好きなバンド、THE GROOVERSさんも来月のライブを告知されています。
嬉しいです。とても……(涙)。
このときには収まっていてくれたらとただ祈って待っています。


⚫ウミガメとミサゴの伝説

2年前に書いたものですがもうどこにも載せていなくて、おそらく5人ぐらいの方にしか見ていただいていないようにも思います。
私が海を好きな原点についてです。

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私の祖母、みわさんのお姉さんが千葉の安房勝山(鋸南町ーきょなんまちー)で民宿と海の家をやっていました。

その縁もあって、みわさんは勝山に小さなおうちを買いました。駅や海からは少し離れています。内房線の次の駅、岩井からもそれほど離れていなかったと思います。

みわさんは夏休みの私たちにおうちを開放してくれました。わーい!

だって、海水浴なんて、その前は谷津遊園(昔習志野市にあった海際の遊園地)に行ったぐらいでした。

行くのに特急「さざなみ」に乗るのも楽しみでした。東京駅の地下ホームから出ていましたね。サーモンピンクの車体は今でもよく覚えています。今はぜんぜん違う色ですね。

みわさんのおうちの前には、よそのおうちの野菜畑が広がっていました。なす、きゅうり、トマト、とうもろこしがたわわになっています。よく小銭を持っていって分けてもらいました。

私が特に気に入ったのはとうもろこしです。
『ハイアワサものがたり』(ネイティブアメリカン、モホーク族の戦士のお話)を読んだ私は、とうもろこしが平和を望む戦士の生まれ変わりだと信じていたのです。とうもろこしの皮をむしって、ひげのような毛をみるたびに、想像はアメリカに飛ぶのでした。

ああ、茹でた後はもうパクパクです。

私が読んだのは、たぶんロングフェローの叙事詩を絵本にしたものでしょう。あの絵本のシリーズ、『ABCブック』は今から見てもすごいラインナップです。

これが幼児期以降の私を作ったといっても過言ではありません。企画・制作(作画・筆者・編者)の方を称賛します。今はできないでしょう。世界文化社の名企画です。
http://www.umi-neko.com/nihonehon/abc-book/abc.htm
↑ラインナップはこちら。

さて、みわさんちから勝山の海水浴場までは、徒歩20分ぐらいでした。

途中は崖下の道もあって少しおっかなびっくり歩きました。崖下には防空壕の跡が何ヵ所かありました。海に出ると、さっそく民宿にご挨拶をして、みわさんのお姉さんに冷たいジュースをいただいて、海にダッシュです。
内房(東京湾)なので波もさほど高くなく遠浅の海でした。

昼になると一回上がって民宿でお昼を食べて、また海へ。夕方になるまで入ってました。砂遊びなどはせず、ただ海に入っているのです。泳げないから浮き輪が友です。砂浜にいる家族の姿を遠目に見ながら。下の弟はまだ2、3歳で母と戯れていました。
着替えだけは面倒くさかった。

ひと夏に1~2週間。よく飽きもせず海にずっと浸かっていたものだと思いますが、去年三浦半島に行ったときも、ただただ海に入って考えごとをしていたので、基本は変わっていないようです。

海にいるとき、猛禽類(もうきんるい)が飛ぶ姿をしきりに見ました。行き帰りの道すがらでも。

私は小学校で「とんび」という歌を習ったので、あれはとんびだと思い込んでいました。大体、ワシとタカの区別もつけられないですから。もっとよく観察すればよかった。補食するのは岩場だったと思うので、海水浴場はスルーしていたのでしょう。

ずいぶん高いところを飛んでいました。

だいぶ後、最近、あれは「ミサゴ」だったのではないかと思うようになりました。みさご島というのも目の前にあり、伝承があることも知りました。

あとに引用します。

あと、印象に残っているのはウミガメです。
砂浜に人だかりがしているので行ってみると、ウミガメがいました。全長1m2~30cmぐらいだったでしょうか。もう生きてはいないようでした。流されてきたのでしょう。ウミガメを見たことも、大きな生き物の遺骸を見たこともなかったので、たいへん強烈でした。

しばらく見ていました。

「亀は長生きなのに、死んじゃうんだなあ」
と思ったことを覚えています。

海にはいろいろな視点がある、という感覚ですね。

岩場にも行きましたよ。

みわさんちからさらに奥に行くとトンネル(隧道ーずいどうーと表示されていたかと)があって、それを越えると岩井袋という入江に出ます。ここには魚や貝が……。大丈夫ですか? 漁業権……。

よくこの岩場で貝を拾いました。たいていは小さな巻貝でした。蟹とかももちろん。夕食にいただいたことも。

私は今でも貝が大好物ですが、ここが原点ですね。今もいい釣りスポットのようです。この入江は結構水深が深いらしい。落ちなくてよかったです。ミサゴもごはんをこちらで調達していたのかもしれません。

今もその民宿はあります。みわさんのお姉さんの息子さんがやってらっしゃいますね。みわさんの家はみわさんが売りました。私の家族も一般のそれより早く解散しました。

勝山の夏は子どもでいられた頃の、遠くて楽しい思い出です。

比較的地味な勝山の海は、その後脚光を浴びました。TVドラマ『ビーチボーイズ』のロケで使われたのです。サーフィンの場面は違うと思うのですが(波がそれほどないので)。反町隆史さん、竹之内豊さん、広末涼子さん、マイク真木さん、稲森いずみさんらが出ていましたね。

あのドラマ、そうと知らずに見ていましたが、素敵でしたね。

私の海好きの原点でした。

あ、写真は三浦半島です。
千葉は最近行っていなくて。

《鋸南町のホームページより引用します》

みさご島伝説(「鋸南町史」(昭和44年刊)より)
 勝山字仁浜、大黒山西端の海上に、かにのはさみのような島がある。海底において、岩派連結し、周囲3町余、「ミサゴ島、又傾城(けいせい)島」という。昔、弟橘媛(おとたちばなひめ)のなきがらがこの島に漂着し、里人ここに葬りしずめ、みささぎ島、又その操をたたえて、操島と称したが、いつの日にかなまって、ミサゴ島となった。年を経ること千数百年、風濤に崩壊して陵も失(う)せ、島形もまた現今のごとく変わったといわれる。 又、「シムダ」と言う地が近くにあり、すなわち、神武田で、これを御陵のあった所という。「シムダ」一に 「ミサンザイ」という。以上安房志の説だが、神田=蟹田と解すべきか。
 竜島海岸には八王子の名があり、日本武尊8人の王子にちなんで八王子という。

 日本書紀景行天皇40年の条に
 前略冬十月壬之朔の癸丑の日(ニ日)日本武尊発路。中略
 亦(ま)た相模(さがむ)に進(いで)まして、上総(かみつふさ)に往(おもむ)がむと欲(おぼ)し、海を望(おせ)りて高言(ことあげ)し曰(のたま)はく「是(こ)れ小(ちひ)さき海のみ。立跳(たちばしり)にも渡りつ可(べ)し。」乃(すなわ)ち海中(わたなか)に至りますに、暴風(あからしまかぜ)忽(たちま)ちに起りて、王船(みふね)漂蕩(ただよ)ひて渡るべからず。時に王(みこ)に従(したが)ひまつる妾(みめ)あり。弟橘媛(おとたちばなひめ)と曰(まを)す。穂積氏(ほづみのうじ)、忍山(おしやま)の宿禰(すくね)の女(むすめ)なり。王に啓(まを)して曰(まを)さく、「今風起(いまかぜふ)き浪泌(なみはや)くして王船没(みふねしづ)みなむとす。是(こ)れ、必ず海神(わたつかみ)の心也。願くは妾(やつこ)の身を以て王(みこ)の命(おほみいのち)贖(あがな)ひて、海に入(い)らむ」と。言ひをはりて乃(すなわ)ち瀾(なみ)を披(おしわ)けて入りぬ。暴風(あからしまかぜ)、即ち止みて、王船(みふね)岸に著(つ)くことを得たり。故れ時人(かれときのひと)、その海を号(なづ)けて、馳水(はしりみづ)と曰(い)ふ。
 爰(ここ)に日本武尊(やまとたけるのみこと)、則ち上総(かみつふさ)より転(うつ)りて陸奥国(みちのおくのくに)に入(い)ります。時に大(おほぎ)なる鏡を王船(みふね)に懸(か)けて、海路(うみつぢ)より葦の浦(あしのうら)に廻りて横さまに玉浦(たまのうら)を渡りて蝦夷(えみし)の境に至ります。後略

https://www.town.kyonan.chiba.jp/soshiki/19/1312.html

⚫お籠りクラフトとばら

また真珠のお話ですが、ずっと小指にしかできなかった淡水真珠の指輪が薬指にはまりました。やせていないのに、びっくり。

スワロフスキーのガラスパールでネックレスとイヤリングを作りました。この種類の真珠は本物でない方がいいかなと思っています。

ばらは夏を待ちます。

それではまた、ごひいきに。

おがたさわ
(尾方佐羽)

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