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徒然なる想い その十三〜二度目の家族の死を迎えて〜

1, はじめに

 当初の予定では、今回の記事で note を半年間継続したことの感想を綴る積もりであった。しかし、前回の記事を投稿した次の日の朝、非常にショッキングな出来事があった。それは、約 14 年間ともに生活してきた猫(ルナという名前であった)の突然の死である

 死を迎える前日までは変わったところは何一つなく、いつも通りムシャムシャと猫草を食べ、私の膝の上で甘えたりしていた。それにも関わらず、次の日の朝になったら、布団の上で静かに息を引き取っていたのである。人間で言えばまさにポックリ逝ったという話で、朝起こしに行ったら布団で既に死んでいたという話に近いだろう。

 4 年前にも家族である猫を失っている(詳細は散文詩の投稿でも語っている)が、このときは 1 週間程度寝たきりに近い状態であったことから、その間に或る程度の覚悟はしていた。しかし、今回は覚悟をするような事象が全くなかった。そのため、未だにルナを失ったことが信じられず、ふとした瞬間にその存在がまだあるのではないかとさえ思ってしまう。日常生活の歯車そのものは回り続けているものの、今までルナの存在をありありと感じていた瞬間になると、歯車が噛み合わず戸惑いを覚えてしまうのである。この独特の喪失感を上手く表現することは難しいが、日常生活に潜むこの不協和が悲壮感を齎すものであることだけは確かなようである。

 このような事情から、呑気に note 継続の感想を綴る気にもなれないのである。そのため、今回の記事では誰が読んでくれるかも分からない note 継続の感想記事を書くことを放棄し、今回ルナの死を迎えて感じたことを主に二つほど綴りたいと思う。論点としては、第一に今回の死を詩によって幾許かは和らげられたことと、第二に改めて死について考えたことの二つを用意した。第一の論点では文化・芸術の視点を交え、第二の論点では生命科学の視点から論述している。余り楽しくもない話かもしれないため、そういう方は途中で読むのを止めていただいても構わない。しかし、一寸でも何かを感じる方がいらっしゃれば、最後までお読みいただけると幸いである。

2, 言葉に救われる

 言葉に救われる。何で見たかは既に定かではないが、昔このような表現を目にした記憶がある。他人のたった一言が人生を変えたり、或いは今までの悩みを全て消してしまったりすることがある。逆に、たった一言で相手を深く傷つけてしまったり、怒らせてしまったりすることもある。このように、言葉には非常に強い力があり、古代の日本人はその力を言霊という概念で表現した。多少なりとも言葉に携わるものであれば、言霊に心を揺さぶられ、その存在を感じることができる

 私も詩という表現法を通じて、言葉と向き合う人間の端くれである。言葉の持つ力、つまり言霊の存在は今まで何度も感じてきた。或る一節が妙に心に響いたり、逆に酷い違和感を覚えたりといった経験は、数えきれないほどあった。しかし、今回のルナの死を通じて感じたものは心が揺さぶられるという感覚ではなく、まさに言葉に心を救われるという感覚であった。

 以前の散文詩の投稿で、家族の死に際して詩を捧げたという経験をお話ししたことがある。今回もルナに対して詩を捧げ(詩は何れ note でも投稿する予定である)、万年筆で綴った詩を火葬の際に遺体と一緒に燃やしていただいた。先ほども述べたように今回は余りにも唐突の死であったため、詩もルナが亡くなった日の夜にほぼ仕上げなければならない状態であった。そして、その日は平日であったため、昼はいつも通り大学にも行っている。そのとき、比較的仲の良い同級生は開口一番私にこう言ったほどである。「今日は何だが元気がないみたいだが、どうした?」と。つまり、ルナが亡くなった日は朝から気分が沈み込んでいて、悲嘆に暮れた状態で詩も制作したわけである。

 亡くなった日はそんな状態であったが、次の日になると不思議と心は多少落ち着いていた。勿論、心の傷が癒えたなどということは全くなく、心の不安定さは相も変わらずなのだが、少なくとも亡くなってしまったという現実を受け入れられる程度に心は安定していた。たった一日、もっと言えばたった一晩で癒える傷でないにも関わらずだ。

 このようなことが可能だったのは、詩を通じて自分の心と向き合えたからではないかと考えた。一般的に何らかの悩みや辛い感情を抱いていたとき、その感情を言葉にする(口頭・文は問わない)ことで気持ちが楽になるということがある。これは、恰も霧に包まれその全体像が判然としない何かを探っていく作業と似ており、自分の心に漂うはっきりとしない感情の正体を理解していくことである。つまり、今回も詩という表現法を通じて自分の心に漂う言葉にならない言葉を見付けていき、自分の心に潜む感情を理解することで、多少は心が軽くなったのではないかと考えたわけである。従って、今回はまさに自分自身の紡ぐ言葉で救われたと感じた。

 そんなわけで、私は今回のルナの死をまさに言葉で救われた。それも、誰か他の人の言葉ではなく、自分自身の言葉である。芸術的な行為は自分以外の誰かに何かを訴えかけるものであるが、そこから生まれた芸術とは自分とは独立した存在になると言われている。つまり、自分が作ったものとは言え、時として作った自分自身が心動かされることもある。今回はまさにこのようなことを経験し、一生に何度あるかも分からない貴重な体験をすることができたと思っている。言葉とは本当に奥深いものであることを、改めて実感せざるを得なかった。

3, 死とは何か

 今まで何度か死に感するエッセイを投稿したことがある。例えば、どうして生物は死ぬのか死とどう向き合うのが良いのか、などといったテーマでエッセイを投稿してきた。これらのエッセイでは、死があることは必然的であり、且つ死に対する悲しみは高度な感情が存在する以上逃れえないものと述べた。これらの考えは、改めて家族を失った今でも決して間違ったものとは思っていない。特に、高度な感情があるが故に死に対する悲しみから逃れられないという考えは、今のところ疑いようのないことだと考えている。なぜなら、高度な感情は愛おしさや数多くの思い出を紡ぐ効果があるからこそ、その反動として失ったときの喪失感が生まれるからである。そのため、死の悲しみからは、どう頑張っても逃れられない。

 しかし、どれだけ頭でこのようなことを理解していても、死に対する悲しみがなくなるわけでもない。何度も述べているように、感情が存在する限り死に対する悲しみは永遠に私たちを追い回す。それこそ、どこまでもどこまでも付け回す存在である。そんなとき、やはりなぜ死というものが存在するのかを考えずにはいられない。どうして、生物には死があるのか?これは人間の未解決問題の中でも、屈指の難しさを誇ると言っても過言ではないだろう。そんなわけで、今回改めて死について考えたことを記録として残しておきたい。

 そもそも、世の中には条件さえ整えば死なない生物も存在はする。例えば、以前の投稿でもご紹介したクダウミヒドラは、環境条件さえ整えば死ぬことがない。また、同じ刺胞動物のベニクラゲはメデューサ(クラゲ体)からポリプ体へと戻り、人間には考えられない若返りを行なっている。他にもより原始的な原核生物には、何億年も眠りに着き、環境が整えば眠りから覚め活動を再開するものもいる。つまり、種々のバクテリアや刺胞動物は、本質的に死という現象を決定付けられていない。環境が悪く耐えられなかったり、他の捕食者に捕われてしまったり、或いはエネルギー源がなくなってしまったなどという事態の結果として、死んでしまうだけである。ヒトのように寿命というものがあって、それに従って死ぬわけではないのである。

 では、これらの生きものはなぜ寿命がないのであろうか。答えは簡単でバクテリアであれば環状 DNA を遺伝物質として利用し、刺胞動物であれば全身に幹細胞が存在しているからである。我々ヒトは鎖状 DNA を遺伝物質としており、実は DNA 複製の度に DNA が少しずつ短くなっていくという特徴がある。そのため、DNA の複製には上限があり、特殊な場合を除いて上限回数(ヘイフリック限界と言う)を超えた細胞分裂は起こらない。つまり、細胞には寿命があることになり、その細胞から構成されている個体にもまた寿命が生じることになる。一方、環状 DNA であればこのような障害がなく、理論上は永遠に細胞分裂を続けられる。従って、バクテリアのような生物は細胞分裂を永遠に続けられ、死ぬことはないわけである。

 ところで、刺胞動物もヒトと同じく鎖状 DNA を持つではないかという意見がありそうである。こう思われた方は、中々鋭い視点をお持ちである。まさにその通りで、刺胞動物も DNA 複製の度に DNA が短くなるという事実は確かに存在している。しかし、刺胞動物は全身に幹細胞を持ち、その幹細胞では短くなった DNA 鎖を元に戻すことが可能(テロメラーゼという酵素の作用による)なのである。つまり、刺胞動物も DNA の構造という点では我々と何ら変わりないのだが、全身にある幹細胞のお陰でヘイフリック限界に縛られず細胞分裂を続けられるわけである。従って、刺胞動物もまた細胞分裂を続け、全身の細胞を常に入れ替えることで、理論的には死なないことになる。

 こうなると、人間や犬猫には幹細胞がないのかと思われるかもしれない。実は、人間にも一部幹細胞はある。例えば、赤血球・白血球などに分化する造血幹細胞や、ニューロン・グリア細胞に分化する神経幹細胞などが存在している。しかし、人間にある幹細胞は体の一部であり、刺胞動物のように体全体に幹細胞があるわけではない。よって、人間の体を構成する大半の細胞には寿命が存在し、細胞の寿命が近づくほど体のあちこちにガタがきて、死ぬ確率がどんどん高まっていくわけである。

……ここまでの話を受け、こう思われた方はいらっしゃらないだろうか。人間の普通の細胞でテロメラーゼを活性化させれば、普通の細胞も幹細胞のように働き、ヘイフリック限界はなくなるのではないか、と。これは当たり前に考えられる話であり、マウスの細胞でテロメラーゼを活性化させるとどうなるのかを確かめた実験がある。普通に考えると寿命がなくなるとまでは言わないにしても、寿命が長くなりそうな気がする。ところが、結果はその逆であった。テロメラーゼを活性化させると、がん細胞が増殖し、そのマウスは却って早死にしたそうである。俄には信じがたい話かもしれないが、ヒトを初めとした多くの動物で刺胞動物のような構造(全身に幹細胞が散らばった体の構造)でないのには、どうやらきちんとした理由が存在しそうである。そして、この理由を探ることはなぜ動物が寿命というものを獲得していったのか、つまりなぜいつかは死ぬという体になって行ったのかを知ることにも繋がる。

 その答えを探るヒントが、マウスでテロメラーゼを活性化させた際の実験結果にあるのではないかとふと考えた。がん細胞が増殖するということは、有体に言えば体を構成する細胞同士のコミュニケーションが失われることである。つまり、本来は細胞同士が密にコミュニケーションを取り合っているのが普通なのだが、がん細胞は細胞同士のコミュニケーションを無視し好き勝手に振る舞うのである。このような状態になると、細胞分裂にブレーキがかからず細胞が指数関数的にどんどん増殖して行く。しかも、がん細胞は厄介なことにテロメラーゼを発現するため、ヘイフリック限界を無視して無限大に分裂を繰り返す。このようながん細胞の特徴を踏まえると、多くの動物で幹細胞が一部を除いて失われているのは、細胞周期(細胞の分裂にかかる周期)を調節し、細胞間コミュニケーションを高度なものにする必要があったからではないだろうか。仮にこのような仮説を設定すると、真核生物の発展と寿命の獲得はトレードオフの関係にあるのではないかとも考えられる。つまり、なぜ動物はいつか死ぬ体になって行ったのかという問いは、動物の体として生きるために必要だったという循環論的な答えに行き着く可能性がある。生と死は表裏一体などと言うが、まさに動物は生きるために死ぬ仕組みを作り上げて行ったのではないだろうか。だからこそ、生まれたときから死という終わりに向かって、一直線に歩む必要性が生じたのではないだろうか。些か想像に拍車がかかっているが、案外真相としては生きるために寿命を獲得したというところなのかもしれない。

 感情があるが故に悲しみ、動物として生きるが故に死ななければならない。勝手な想像かもしれないが、仮にこんなところだとすれば、人間というのも中々辛い生きものだと言えるだろう。他の動物たちが世界をどのように見て、またどのようなことを思っているのかを確認する術はない。しかし、寿命のないヒドラには死というものに対する恐れや悲しみは余りなさそうであり、考えようによっては非常に気楽に生活している(実際はそこまで気楽な世界ではないが)とも言えるかもしれない。こう考えてみると、人間として生きるということはかなり大変なことなのかもしれない。しかし、世界を感情で彩り、また世界に対する謎に近づくことのできる人間は、それと同じだけ幸せなのかもしれない。まさに、トレードオフとして得たものは、少なくとも私にとっては掛け替えのないものである。

4, 最後に

 以上、ルナの死に際して思ったことや考えたことを主に二つの視点から述べてきた。何れも主観極まりない戯言に近いものであるが、少なくとも私にとっては新たな発見であり、また新たな学びであると言える。

 一つ目の論点は言葉、或いは芸術的な面から死というものに向き合っている。一方、二つ目の論点では生命科学(科学と言えるほど証拠を十分に積み上げられているわけでもないが)の側面から死を捉えようとしている。これら二つの論点は、文理の隔絶という思考に立てば、相反するものにも見える。しかし、二つの論点から導かれる結論は、不思議と一致する。

 仮説として立てた「感情があるが故に悲しみ、動物であるが故に死ななければならない」という結論が仮に正しいものであるとするなら、人間は死に向かい合おうとするとき不幸にしかならないことになってしまう。同時に、生きている限り死に向かい合わなければならないということを加味すれば、人間は不幸になることを運命づけられていることになってしまう。しかし、不幸になるために生きているというのは、余りにも酷薄なことであろう。そこで登場するものが、思想や芸術といったことなのではないだろうか。思想はものの見方に変化を齎し、芸術は感情に対する理解を深める。つまり、思想や芸術といった人間特有の活動により、辛い人生に彩りを与えられるのではないだろうか。従って、生命科学から見えるヒトとしての本性こそが、思想や芸術といった人間としての性質を生み出すのではないかと考えられる。要は我々の中に潜むヒトとしての本性こそが、人間としての性質をも要請しているという話である。

 余りにも都合の良い解釈だろう、と言われてしまえばそれまでである。とは言え、人間もヒトとしての本性を内に秘めており、その本性から逃れることはできない。生きることを知るということは、まさに死に対しての理解を深めるということでもある。そして、生と死が表裏一体であるのなら、どう生き、どう死んでいくのかを考えなければならない。そんなことを思わずにはいられない。

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