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Why do all living things have to die?〜生命はなぜ必然的な死を迎えるのか〜

人生の終着点に必ず死が待ち受けていることは、我々なら誰でも知っていることです。古今東西を問わず多くの人が死というものを考え、例えば平家物語(参考文献 1 )では死を次のように述べています。

生者必滅会者定離は浮世の習いにて候也
(生けるものの死や出会ったものとの別れは、この無常な世界の理である)

無常観を根底においた平家物語らしい文言ですが、確かにこれは一つの真理を表わしていると言えるでしょう。勿論、植物のように何千年という寿命を手に入れたり、ベニクラゲのようにメデューサ(一般的な傘をもつ形態)からポリプ(メデューサの前の形態でイソギンチャクのような見た目)に戻る仕組みを獲得したりする生物もいます。また、バクテリアの中には好条件が整うまで活動を中断させ、環境が整ってから活動を再開させるものも存在し、何と1億年近くの眠りを実現している種も存在します(注 1 )。このように一見すると死を克服したように思える生物種も沢山存在するため、平家物語の説く死に反駁される考えもあるかと思います。しかし、このような生物が死を完全に克服したかと言うと決してそうではなく、ベニクラゲや植物も環境条件によっては生命活動に終わりが齎されます。従って、生命活動の停止を死と定義するのなら、やはり死は生命にとって免れ得ないものと言えます。そうすると、我々人間は当然こう考えます。

「なぜ、全ての生物は死を迎えなければならないのか?」

と。と言うわけで、今回の記事では今まで身につけた知識を使って、可能な限りこの問いを探求していきます(注 2 )。前回の生命科学のエッセイで次回は進化の過程を扱うと言っておきながら、予定を変更することになってしまいましたが、今回も最後までお付き合い頂けると幸いです。


さて、この問題を考えるに当たって、今一度生命の定義付けをしておきます。以前投稿した「What is Life?〜生きるとは何か〜」という記事では、個体を暫定的に”生命の築いてきた歴史を生殖活動を通じて継続して行くための中継的な役割”と定義しました。今回もこの定義を正しいと仮定して、生命はその歴史を存続させることを一義的な役割として持つ、と考えることにします。生命をこのような視点から捉えると、種を残すためには時として利他行動をとるようになることが容易に想像されるかと思います。例えば、働きバチは基本的に不稔性であるため、自身が子孫を残し種を存続させることができません。そこで、血縁度が高く(血の繋がりが濃い)、また生殖能力のある仲間を自己犠牲的に守ることで、自分は死んでも種は存続させるということを可能にさせています。このような利他行動は生物の世界で多く観察され、自分が生き延びることよりも生命の歴史を存続させるような本能を持っていると言えるかと思います。


ようやく生命の定義やその性質がはっきりしてきたところで、再び本題に戻りましょう。とは言え、生命が死を必然づけられていることを真正面から考えようとすると科学的というより宗教的な問題にも思えてくるので、少し視点を逆説的なものに変えてみます。つまり、

「もし生物が不死だと仮定すれば、どのような問題が起こるのか?」

という視点から生命にとっての死を考えていこうと思います。何となく難しそうな問題に思えますね。しかし、この問題を生命の持つ性質から考えれば、不死ということはそもそも不合理極まりない形態であることが分かってきます。なぜなら、生命を取り巻く環境が時事刻々と変化するものである以上、生物の方も常に変化をしなければならないからです。不死であることを換言すれば永久に変化しないということであり、どうしても適応という観点からは不利になってしまいます。かなり極端な例ですが、石器時代のヒトが不死であったと仮定して、数万年後に突然白亜紀のような恐竜が現われたとしましょう。石器時代のヒトがその環境に適応できるかというと、かなり微妙な気がしてきませんか。下手すれば、ヒトという生物種は絶滅し、ヒトから見た生命の歴史は呆気なく幕を下ろしてしまいます。このように、変化しないことが絶対的に良いかというと決してそうではなく、寧ろ多様性に富んだ変化をして行くことで生命の歴史の持続を可能にさせると言えるのではないかと思います。よって、不死、つまり永久に変化しない機構は生命にとって不合理なものであることが分かります。


不死が不合理なものである以上、生物は子孫を残すという形態をとる必要性が出てきました。つまり、生殖というものによって、新たな個体を生み出そうということです。生殖様式としては我々ヒトが採用している有性生殖と、ナマコやプラナリアが採用している無性生殖の2種類があります。進化の歴史を辿って行くと、当然有性生殖の方が後に登場してきたものであり、遺伝的多様性を生み出す点で優れています。少し考えてもらえばお分かり頂けると思いますが、無性生殖は子孫に同じ遺伝子が受け継がれるのに対し、有性生殖は子孫にオスとメスの遺伝子が半分ずつ受け継がれます。加えて、オスとメスの遺伝子も減数分裂時の交叉という現象を通じて、子孫に与える遺伝子の組み合わせを増加させます。そのため、無性生殖は遺伝的多様性を生み出すのに向いておらず、有性生殖は遺伝的多様性を生み出すのに向いた仕組みであることが分かります。このように生殖が遺伝的多様性を生み出す方向に進化してきたことを考えれば、多くの生物にとって遺伝的多様性を生み出すことが有利に働いたと想像されます。遺伝的多様性を生み出すことで何が有利になるのかと言えば、変化する環境に適応できる確率が増加するということが挙げられます。遺伝的多様性が少なければ、急激に変化した環境下で個体が全滅してしまう可能性がありますが、遺伝的多様性が高ければ高いほど全滅を免れられる可能性が増してきます。全滅さえしなければ、また個体を増やすことが可能になるため、種からみた生命の歴史を存続させることが可能になります。よって、子孫を残す機構、もっと言えば有性生殖という遺伝的多様性を高める機構を採用することで、自然選択の末に生き残る確率を高めようという発想があることが分かります。従って、遺伝的に大きく変化することのない個体を生き残らせるよりも、遺伝的多様性に富む子孫を生き残らせる方が進化的な戦略に於いて合理的だという話になってきます。


ここまで論じてきたように、生命の性質、つまり生命の連続性を確保しようとする性質から考えれば、不死である個体を生み出すよりも、遺伝的多様性の高い子孫を生み出す方が合理的であるという結論が導かれます。しかし、ここで或る反論がありそうです。遺伝的多様性に富む子孫を残しつつ、不死である個体を生み出せば、環境が極端に変化しない状況下では双方が幸せに暮らせるのではないか、と。死を恐れるとともに、身近な人の死を悲しむ我々からすれば、やはり不死であることへの希望を捨てるのが難しいかと思います。しかし、ここで少し考えてほしいことがあります。それは、動物に於いて個体の寿命が伸びれば、骨格の機械的老化や細胞レベルでの老化などを避けることができず、どんどん生き残る上で不利になって行くということです。例えば、老化が進んだシマウマは速く走ることが難しくなってきますので、ライオンなどの捕食者から逃れられなくなります。つまり、老化が進めば進むほど、現在の環境下ですら生き残ることが難しくなってきます。よって、動物では不死であるからと言って、老化が進まないわけではないので、現在の環境に適応することさえできなくなってくるということになります。このことに加えて、古い個体が死なずに新しい個体が次々と生まれて来れば、そもそも地球上にそれだけの生物が生息できる場所があるのかという問題が出てきます。例えば、ヒトの数が今の100倍に増えたとしたら、この地球上の一体どこで暮らすと言うのでしょうか。陸地に住む場所はなくなってしまいますね。生態学では或る生態系に於ける生物の個体数には上限があると考え、これを環境収容力と言ったりします。つまり、環境収容力を超えて子孫を増やすことはできないのですから、世代交代をどんどんして行かなければならないのです。少し残酷な言い方になりますが、やはり古い個体は時期が来たら消えなければならないのです。従って、不死である個体は老化により適応度が下がって行くとともに、環境収容力を直ぐに満たす存在になってしまいます。そのため、不死であることに余りメリットがないと言えます。


以上の議論により、ようやく最初の問いに対する暫定的な答えが出せそうです。先ず、生命は遺伝的にほとんど変化がない不死という形態をとるよりも、生殖を通じて遺伝的多様性に富む個体を残した方が生命の連続性を保つ上で有利になります。この観点からすれば、遺伝的変化を通じて多様性を増やすことが戦略上有利だということが言えます。次に、古い個体は老化により適応度が減少して行くにも関わらず、古い個体を生存させるための物質やエネルギーが必要になってくるため、新しい個体を生み出す点で有り難い存在ではなくなります。この観点からすれば、物質の有限性を踏まえて淘汰されにくい個体を存続させなければならないということが言えます。これら2つのことから、生物は死ぬことによってしか生命の持つ性質を満たし得ないという結論が導かれます。何とも残酷な結論ですが、死によって新たな生を生み出すという生命の循環が見事に表われているように思うのは私だけでしょうか。


大分長くなってきましたので、今回はこれ位で止めようと思います。いつもながら、長い記事を読んで頂き有り難うございます。ところで、今回は最初の記事「What is Life?〜生きるとは何か」と裏表の関係にある記事と言えます。今回が死から生命を捉えるとすれば、最初の記事では生から生命を捉えているからです。従って、最初の記事が未読であれば、是非読んで頂きたいです。さて、次回は進化の過程を論じるーーと言いたいのですが、次回も今回の記事の流れから死というものを引き続き考えて行きたいと思います。ただ視点をちょっと変えますので、次回もお付き合い頂ければ幸いです。最後になりますが、今回の記事に対する感想を頂けると嬉しいです。


注釈
注 1 :この内容は Nature の論文記事を参考にしています。(参考文献 2 )

注 2 :必然的な問いのように書いていますが、恥を偲んで告白すれば、死を身近なものとして感じるまで、つまり愛猫との別れを経験するまではこのような問いを発したことがありませんでした。今になって振り返れば、この経験があったからこそ、死というものを考えるようになるとともに、益々生命に対する関心が深まって行ったのかなと思います。 note の投稿を継続する中でこのようなことに気がついたため、急遽予定を変更して今回はこのようなテーマにしました。



参考文献
1:梶原 正昭、山下 宏明 著 「平家物語<4>」 岩波文庫(1999/10/5)

2:Yuki Morono 1,2 , Motoo Ito 1,2, Tatsuhiko Hoshino1,2, Takeshi Terada3, Tomoyuki Hori 4, Minoru Ikehara 5, Steven D’Hondt 6 & Fumio Inagak "Aerobic microbial life persists in oxic marine sediment as old as 101.5 million years" (2020/7/28)
https://www.nature.com/articles/s41467-020-17330-1.pdf


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