家族との接し方、聴覚の悩み、諦め

日頃服用する薬の量が全て1.5倍になってしまう日が1週間くらい続いている。僕は維持を嫌い変化を好む傾向である癖に、いざ環境が変わる前になると情緒の波が不安定になる。情けない。
辛いだけならいいのだが、無意識に周りへの当たりが強くなっていそうなのが嫌だ。心の中でも声や態度といった外でも。

僕は何故か母親、というか家族に対してだけ異常に上手く感情が出せない。元々そういう性格だが、「友達の友達」とか「かなり年上の先輩」みたいなものとは比にならない。高校時代よりはマシになったが、まだしっかり異常である。

世間話ができない時がある。できないというか、中身の無い話題が身内相手になると面白いくらいに出てこない。その上食事の際に「今日は○○を食べたの」みたいな話を母親が多分気を使って出しているのだが、相当機嫌が良い時以外は「そうなんだ」「うん」という感想しか返せない。

同じゼミ生の発表に対して質問が全く出てこないトラウマを思い出した。僕のコミュニケーションの欠陥はここにある。
きっと本当に素のままであると、僕は目の前に生活を共にするような関係性の人がいても、居ない物として過ごすことがあるだろう。食事の際に会話が1つも無くても全く問題ない。言った方が良い内容を話すのであればこれも構わない。

精神が不安定な時は母親に対して酷いことを思うこともある。「仕事が始まる前に部屋を掃除したら?」みたいな普通のことですら「ゴミ屋敷ほど散らかってる訳では無いんだし、それくらい好きにさせてくれ」と勝手に疲れてしまう。頼りきって迷惑しかかけない分際で本当に申し訳ない。

もっと言うと僕は2階、母親は1階リビングを1番過ごす部屋としているのだが、階層が違うくらい距離があっても「母親がいる」という意識が抜けないのが辛い。会話を聞かれたり生活音から行動を察されたりしている感覚が反抗期から未だに残っている。
それに拍車をかけるように、僕がそんなに大きくもない音を立てると、飼っているドーベルマンが不快になるくらいの声量で吠えるものだから落ち着けない。
あの子は母親がいると良く音に警戒して吠える。大型犬の鳴き声ほど不快な音ってないなとさえ思わされる。赤ちゃんの泣き声とか電車の音とかは許容できるんだけど、あの音で刺されるようなストレスは慣れることが出来ない。ただあの子も僕と同じ、聴覚が過敏すぎる生態故に生まれた弊害なので仕方ない。
そんなんで少しでも大きな音を出すと隣の部屋の人から壁ドンされるように犬が反応するので、気づいたら無意識に音を立てず、忍者のようにそっと動いたりするようになってしまった。心に余裕が無い時はワイヤレスイヤホンを付けて、強制的に意識をできないようにしている。

僕はわりかしどんな人相手でも「反りが合わない」事態がほとんど起きないのだが、「オーバーリアクションや細々な行動時に立てる音が大きい人」は正直苦手だ。具体的には虫が出たらホラー映画の演技のような声量で叫ぶ人や、出来事の大きさに釣り合わない声を上げる人だ。
「常に声がでかい人」も苦手な部類ではあるが、こっちの方がマシな気がする。オーバーリアクションは必然的に急に来るので驚くし、その人に振り回されているようで疲れる。そのリアクションをするに値しないだろ、と個人的に思う物であればあるほど腹も立つ。
自分は逆に全然表に出さない為、ビックリすることよりも、釣り合わない反応をしている、という点に理解し難い嫌悪感を持ってしまうんだと思う。母親が少しその毛があって、「とことん自分と真逆だなぁ」と。


「世間話が上手くできない」「音に対して異常に過敏」今回書いたこの2つの悩みはモロにASDの特徴であり、ドーパミン再取り込み阻害薬を服用していると顕著に出る。ただこれは元々あった物を表に出しやすくなっただけで、本質的には変わっていない。裸眼だとぼやけていた視界が、メガネをかけると鮮明になるのと同じだ。見え方は違っても"景色に存在するもの"自体は揺るがない。

ハッキリ自覚できるようになっただけマシだ、成長ではある。しかし精神科で発達障害の有無を診てもらっても、精々グレーゾーンの判定がいい所なのは明瞭である。「なんとかと言えど大学を卒業して、最低限の社会性は保てている」という背景があるから。オピオイドをバクバク食って気持ちよくなりながらじゃないと大学に通えなかった時点で相当なんだけどな。この立ち位置は中途半端でもどかしい辛さがある。おまけにそもそもASDの明確な治療薬は無いと来た。

これは不治の病か?精神病も他の病気のように薬を飲んだら治る、という訳では無いけど"限りなく消す"事は割と可能である。しかし発達障害、僕は違うかもしれないが、"本能的な脳の反応のバグ"は治しようがない。環境といった外側からの影響で軸がブレる訳でなく、生まれた時からそもそもの軸が何もせずとも壊れている。元からAボタンが反応しないように作られたコントローラーを反応するように"修復"することはできない。できることは"改造"だ。ADHDの治療薬を服用する構造とはそういう事だと僕は考えている。

上記の2つ以外の"異常たる要素"は数えたらキリがない。薬で感覚を狂わされたが、その前から別の方向で狂っていたので「依存する前の感覚に戻りたい」とはあんまり思わない。寧ろ前より良い狂気とすら感じる。

僕の夢は大金を得ることでも世界を変えることでもなく、「雑踏の中で見かける、幸せそうな、至って平凡な母、父、子側になること」だ。ただ家庭を作りたいという意味ではない。結婚をし、生活を支えられる精神力があり、良くも悪くも普通の価値観を持って生きる世界が欲しい。

彼らからは身近な人が結婚して子供が産まれたという話を聞いた時に「こんな世界に生まれて可哀想だな」なんて発想は出てこない。素直に祝う感情を出す。自分と世界を嫌い自傷行為をする選択肢が現れる事なんて生涯ない。すれ違いざまに刺し殺して全部奪ってしまいたくなるほどに嫉妬するユートピア。僕はその世界へ向かう切符を買うことができない。買う金がないのではない、買う権利が無いのだ。

僕は22の若造なのに、もう老人が持つような「生への足掻きの諦め」を持っている。薬物依存に苦しむ途中からどうにもできないと悟った。本当に死ぬのを待っているだけの生活になった。「薬は減らした方がいい?」どうでもいい。「恋人が居ると幸せ?」どうでもいい。「10年後どうしてるか?」どうでもいい。

「せめて頑張ろう」と苦悩することをほとんど辞めてしまった。随分薄っぺらい人間になっていると実感する。寝る時に出るような「明日のご飯はなんだろう」「明日は何をしようか」といった近い未来への小さな興味さえ無くなった。自分を他人と同等に扱ってしまう。エゴのない人間は魂が抜けて空っぽになった死体に似ている。冷たくて、なんだか悲壮感があって見てられない。

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