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ひそひそ昔話-その4 私を傷つけ続ける大人たち。永遠という、まんざらでもない表情で寄り添ってくる3つの顔-

乾いた泥を掴むと、ぽろぽろと崩れて地面に落ちる。どんな状態にも、どんな空間にもフィットするほどなめらかな身体を持っていたはずなのに、太陽のもとに晒されると脆くなってしまう。
 私にとって怒りという感情はそういう具合に、時間が経てば経つほど無意味で無価値で、誰からも無関心であるみたいに、やがて心の片隅に掃きだめを作る。
 私も忘れよう忘れよう、と何度も思うのだが、そういう怒りは、どうしようもないくらいに心の片隅で疲れ果てた姿で居座る。で、ことあるごとにその存在が引っかかってしまうのだ。
 
 よく映画や小説なんかで「大事な人はキミの心の中で生き続けるよ」みたいな諭し方をされる。でも残念なことに、全然大事でもない、たいして価値もなく無意味な人間さえもデカい面して僕の心に居座り続ける。そいつらが心の掃きだめの所有者である。

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 中学生の頃、私は部活の副キャプテンで、遠征の度に部の所有物(ネットとか救急箱とかボール)を管理しなければならなかった。とある日曜の遠征で救急箱を遠征先の中学校に置き忘れたことがあった。翌月曜日の早朝に顧問の部屋に呼び出され、職務怠慢をこっぴどく叱られたことがある。まぁ100%オレが悪いや、と反省し、部屋を去り際に顧問が放った一言は、「ヘラヘラしやがって。楽観的すぎるお前を殺してやりてぇ」だった。瞬間、自分ががらんどうな存在になった気がしたことを覚えている。

生憎、当時私はBLEACHを読んでいなかったから、藍染惣右介のように

あまり強い言葉を遣うなよ 弱く見えるぞ

なんて言って返すこともできなかった。大体私は図体ばかりでかいだけで、チャドのように霊圧がすぐ消えちまう。

 とにかく、だ。ろくでもない、教育的な人間がほとんどいない学校ではあった。今考えると県内からろくでもない愚かな教師を寄せ集めたみたいな中学校だった。

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 高校の頃、軽音バンドを組んでいた私は、メンバーが翻意にしているスタジオからアンプやらモニターやらを手配して文化祭に出ようとしていた。文化祭でバンドが出場できるステージは二つ。オーディションを勝ち抜いたものは体育館でアンプを通して爆音を鳴らせる。そうでないものはアンプなしのストリートライブである。(ド下手でオーディションにも乗っかれないような)私たちは、使い古された青春パンク精神に乗っ取り、アンプを持ち込んでストリートライブで爆音を奏でようとしていた。

 ところが、学校を通して手続きをしていないとかで中止に追い込まれた。まぁ、ルールを順守しなかった俺らが100%悪かったな、などと反省している時に指導教諭がこう放った。「軽音やバンドは非行に通ずる。文化祭での演奏はそもそも特別に許可してやっている」だ。

 おいおい、冗談じゃあないぜ。いつまで金八先生的スケールで人を諭せると思っているのだろう。私たちが夢を描いたバンド活動をなぶり殺しにされたような気持だった。もちろん私は教室に戻ってクラスメイトの目も気にせず泣いたし、文化祭の日は、一日中教室にいながら体育館から聞こえてくる音漏れに文句を言い続けていた。「俺は音楽で食っていきたいかもしれない」なんて、今考えると大それたことを思っていたなと照れてしまうが、当時は本気だった。そしてそれを、夢を、否定されたわけだ。
 本当に、しょうもない、くだらない指導教諭だった。

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 修論完成を控えたナーバスな時期、ちっとも良い成果をあげることができない上に、研究室のルール(一日の研究成果をまとめ、コピーし、手交し、メールする。まぁそこまではわかる。でも、そのメール送信画面さえもコピーして手交しろ、ってどういうことだ?)を守らない私に対して、研究室の教授が放ったのは「そんなんだから、色々だめなんじゃないの? どこに行ってもキミじゃ無理だよ」だ。就活失敗した私に効果抜群である。当時私は必死だった。いくらか愚かで、いくらか自暴自棄ではあっても必死だった。彼は、非を認めよと言う。それで非を認め、私が全面的に悪かったのだと謝ると、自分は私のためにいいことをしてやったのだと笑った。彼は笑ったのだ。それだけでなく、「私のために」というのを強調して事の成り行きを研究室で吹聴する。「私のおかげで、彼は分かってくれたよ」などと。私にはどうすることも出来なかった。卒業できるかできないかの全権は向こうにあった。
 とても卑怯な人間だった。

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 なにをそのくらいで、と思われるかもしれないが、人生で最も多感な時期にその「なにをそのくらい」で一度傷つくと、もう一生治らないのだ。私が何かで失敗するたびに、彼らの言葉がオーバーラップする。地下鉄がレールに巨体を擦り付けながら発進していくときみたいな耳障りな音声で話しかけてくる。「そんなんだから」と。人格を否定し、夢を破壊され、将来の全ての分岐点に先回りされて選択肢を否決されてしまう、というのは少々重苦しいものだ。負け犬には辛い。私が大人という社会に甘い期待を抱きすぎていたのだろうか?

 どう足掻いても、どれだけ時間が経っても彼らを赦すことはできないし、その必要もない。だが投げかける言葉さえ持ち合わせていないので、仕方なく心の片隅の掃きだめで縮こまっている、その土くれのような怒りをかき集めて彼らに向かって投げる。けれど、その乾いた泥は、彼らの顔に届く前に、風の前の塵と化す。

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