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8月12日 店の猿、足元のおしぼりBOX、親戚の集まりは糞。

祝日に来る客は糞ばかりである。おじいちゃん、おばあちゃん、お母さん、お父さん、その子供、その子供、みたいな大家族が特に糞だ。イートインコーナーをリビングのように使いやがり、一瞬にして店内の雰囲気を団欒と変えやがる。僕はあの親戚が集まった時の空気感みたいなのが、幼い頃から嫌で嫌で仕方がなかった。余所余所しさと、馴れ合いの狭間で放った言葉は宙に浮き、浮かんだ言葉を皆で眺め、しばし沈黙。沈黙を破るのは、決まって縦横無尽に走り回るクソガキ。そのクソガキを見て、皆がアハハ、オホホ。ガキはおじいちゃん、おばあちゃんが思ってるよりも、小賢しく、自分が縦横無尽に走り回ると場が盛り上がることを理解する。そしてかぶせる。やり過ぎるまで縦横無尽に走り続けるのである。クソ一家め。
話は変わる。レジ場の足元に、おしぼりを100程詰め込んである段ボールがある。この段ボールは常に足元にある。客に渡すために手元に置いてあるおしぼりが切れると、足元のおしぼりを30程掴み、手元のおしぼりBOXに補充する。となると、足元の段ボールに入っているおしぼりの数は70となる。当たり前の話だ。これを繰り返していくと、70から40、40から0とおしぼりが減っていってしまう。それはいけないということで、足元の段ボールに入っているおしぼりが50程になると、10m先の事務所のから、おしぼり一塊り50個セットを持ってきて、それをバラし、足元の段ボールに補充し、おしぼりの数を100に戻す。僕はこの工程が怠くて仕方がない。足元の段ボールに手を伸ばすのが単純にしんどいのである。何時間もレジに突っ立っているので、屈むという行為が非常に珍しく感じられる。珍しいことをするのにはいつだって体力がいるものだ。とにかく僕は屈むのが嫌なのである。そしてこの足元にある段ボールの中のおしぼりが切れたら、10m先の事務所まで歩かなくてはならないのも、気にくわない。補充の補充なんてバカバカしくて仕方がない。なので最近僕は、手元のおしぼりが切れると、足元の段ボールを華麗にスルーし、10m程歩き、おしぼり50個セットを手にし、いきなり手元のおしぼりBOXにおしぼりをぶち込んでやるのである。これはストレスがなく我ながら非常に素晴らしい作戦のように思えた。補充の補充を避けることが出来るし、何より膝を深く曲げなくてよい。一度深く膝を曲げるくらいだったら、何百回か浅く膝を曲げながら10m歩いた方が、精神的にも楽なのである。が、これを繰り返していく内に、とあることが気になり始めた。それは足元にある段ボールの存在意義についてである。待てど暮らせど段ボールの中のおしぼりは100から100。一向に減らないのである。であれば、これは何のためにあるのだろうと思うのが自然である。では無くしてしまえばいい。が、簡単には無くせないのである。それは僕一人で働いている訳ではないからである。この店には僕の他にも数多くの猿のような店員がウジャウジャといる。奴らは日々退屈しているので、ちょっとした変化に非常に敏感であり、もし足元の段ボールが無くなったと彼女らが気づいた場合、僕は糾弾されてしまうであろう。本当にそうなのである。が、事情を説明すれば話は別だ。ここまで書いてきたことを、更にシュッとさせる。具体的には、一般的な表現を猿でも分かるような表現に変えるということだ。例えば、段ボールをだんぼーるとするなど、そういったことだ。口頭だからこの例えは違うのだけど、ま、ニュアンスとしては、このようなことなのである。かなり体力が必要になる。まずレジを打ったり、品出しをしたり、誰かをこづいたり、高い所に手をタッチできるかに挑戦したり、目をつぶりながら入り口からレジまで歩けるか試したり、そういった事をしている彼女達を一箇所に集める必要がある。それだけでも至難であるのに、その後言葉を使って、納得させなくてはいけないのである。そこまでして、足元の段ボールを無くしたいかと自分の胸に手を当てて考えてみると、そうでもないのである。ん〜難しい。


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落合諒です。お笑いと文章を書きます。何卒よろしくお願いします。