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虐待の入り口は、あなたの日常に存在する。


こんにちは、おあです🤗
3児子育て中で、小学生の娘2人はホームエデュケーションを選択しています✨
子どもたちが毎日を楽しく、自分らしく過ごせる社会にしていくために、これからの学びの在り方について考えるnoteです📒
今回は、「教育虐待の入り口はあなたの日常に存在する。 」というテーマで書いていきます🖋



■怒ると叱るは違う?


皆さんは子どもを叱ったこと、ありますか?
もしくは子どもの頃、大人に叱られたこと、ありましたか?

私は、子どもを叱ったことがあります💦
育児本なんかには、「感情的に怒るのではなく、理性的に叱りましょう」というようなことが書かれていまして💦
私自身、「怒るのと叱るのは違う」「子どもを怒ってはダメだけど、正しいことを教えるために叱ることは必要」だと、ずっと思い込んできました。
「大きな声を出してはダメよ」とか、「きちんとご挨拶をしなければダメよ」等と❝しつけ❞のつもりで叱っていました😥
社会で生きていく上でのルールやマナーを教えるために、「子どものためを思って」子どもを叱っていた気がします😱

子を叱る親



■叱るという行為の本質

「叱る」という言葉の意味を辞書で調べてみると

「目下の者に対して声を荒立てて欠点を咎める、咎め、戒める」

と書かれていました🙌

この「叱る」という行為。
「社会的に躾けるために必要とされている行為」が、実は、❝虐待の入り口❞である、ということを暴いた本があります。
「ニューロダイバーシティの教科書」の著者で、村中直人さんという臨床心理師・公認心理師の方の「叱る依存が止まらない」という書籍です👇
この書籍を読んで、私は衝撃を受けてしまいまして😱

村中さんはこの本の中で、「叱る」という行為は❝依存症❞に近い要素があると指摘しています。
村中さんは「叱るという言葉は、定義すると、『言葉を用いてネガティブな感情体験、例えば恐怖、不安、苦痛、悲しみなどを与えることで、相手の行動や認識の変化を引き起こし、思うようにコントロールしようとする行為』である」と言っているんですね😨

「叱らなければいけない」と考える人は、ちゃんと正しいことを教えなければ分からないだろうと。厳しくしないとなめられると。甘やかしてはいけないと。そういう価値観を持っているのだろうと仰っています。
さらに、相手に❝変わってほしい❞と思っているので、「叱る」という行為を使って相手を変えようとしている、というわけなんですね💦
叱るとはつまり、相手に引き起こされるネガティブな感情体験を利用して、他者をコントロールしようとしている行為なのだと断罪しているんです。
曰く、「叱ることと罰を与えることはほとんど同じ」であって、「相手に苦しみを与えたいがゆえに叱る」のだと。
苦しみを与えることで、人は変わるはずだ、反省するはずだ、という価値観がその根底にあるのではと言っています。
要は、苦しまないと、人は変わらない、学ばない、成長しない、という思い込みがあるのではないかと・・・😱

叱る行為


■処罰感情と依存性


この本に書かれていることで、もう1つ衝撃を受けてしまった点があります。
それは、❝人間には処罰欲求というものが存在し、他人を叱ることでその処罰感情を充足させることができる❞という話😱

なんと人間は、他人を苦しませることでスカーッと気持ち良くなったり、満足感充足感を得たりするということなんです!!!😮
意地悪な人や、ズルをした人を見た時、誰でも「罰を与えてやりたい」とか、「仕返しをしてやりたい」とか思いますよね💀
それが、❝処罰欲求❞というものみたいなのですが。
その処罰欲求を「叱る」という行為で手っ取り早く満たすことができるというわけなんです💡


例えば自分が相手を叱ることで、相手が怖がって、萎縮して、正しい行動をとったとしますよね。
そうすると、自己効力感自己有能感が満たされるんです😱
つまり、「叱る」という行為が、ある種の快感をもたらす、というメカニズムが存在するんです💀
・・・しかもですね、叱る側の自分はあくまでも正しくて、叱られる相手が間違っていると思っているわけです。
相手には叱られて当然の理由があると。
相手が悪いこと、間違ったことをしたから、自分は教えてあげているんだと。相手のためを思っているんだと。
・・・これが「叱る」がどんどんエスカレートしていく所以です😨

叱ることで、相手を正しく変えることができたと感じた時に、処罰欲求が満たされ、自己効力感を味わえ、脳内にドーバミンが大量に放出され、快感を覚えます。そこから、どんどんどんどん、「叱る」という行為に依存していってしまうのだと😨
これが、「叱る」という行為が「虐待の入り口である」とされる所以なんですね💦


私はこの本を読んで、本当にびっくりしてしまったんですよね😨
❝処罰感情❞=「誰かを罰したい」という欲求が、私たち人間には存在するということ。
その欲求を手っ取り早く満たせるのが❝叱る❞という手段であり、その快感にいつの間にか依存していく・・・。
そのうち、気付けば手が出て、足が出て・・・。
いわゆる「虐待」という沼に、知らぬ間に嵌まり込んでいく、というメカニズムだったのだと。

虐待沼


■自分の処罰欲求に気付く重要性


そんな恐ろしい虐待沼に嵌まり込まぬよう、私たちにできることは、まずこの❝叱る依存❞というメカニズムについて、正しい知識を持つこと💡
誰もが抱いている❝処罰感情❞という存在に、まずは気付くこと。
自分の中にも処罰感情があると認識した上で、自分の欲求を満たすために、目の前の子どもを叱っているのではないか?と立ち止まり、自身を省みる必要があります🙌

自分はなぜこんなに処罰感情に支配されてしまっているのか?
自分は本当は何に不安や不満を抱いているのか?

一度冷静になって、俯瞰して、自分について掘り下げる必要があります☘️

自分を掘り下げる


■叱る側のニーズ


また、書籍の中で「叱る側になんらかのニーズがあるから叱っているんだ」ということを村中さんは指摘しておられます。
叱ることに依存している人というのは、ほとんどの場合、うまくいかない現実に対するイライラを持っているのではないかと😥
もしくは、❝低すぎる自己評価❞であったり、❝他者にコンプレックス❞を抱いていたり、場合によっては❝多忙による慢性的な疲労❞や、❝極度の体調不良❞なんかもあるのかもしれないと。
いずれにせよ、叱る側には❝受け入れがたい現実❞を抱えている状況が存在するはずだと看破されているんですね😫
その受け入れがたい現実を、一瞬でも忘れさせてくれる快感が、「叱る」という行為によってもたらされるというのです😱
「叱る」ことで、自分自身の苦痛から一瞬でも解放される経験に味をしめてしまうと、薬物依存と同じように、自分ではコントロールできなくなっていく、という恐ろしいお話なのです・・・🫠



■褒めるも叱るも根は同じ


じゃぁ、「叱る」の反対の「褒める」ならいいのかというと、私はそうじゃないと思うんです💦
なぜなら、「褒める」ことも「叱る」ことも、背景には「相手を自分の思う通りにしたいと思う❝コントロール欲求❞がある」と思うからなんですよね😨

自分の中に「こうあるべき」がまずあって、それにそぐわなければ叱る
自分の思う通りの行動をした時には褒める
それは表裏一体であって、❝相手をコントロールしたい❞という自分の欲望を満たすための手段という意味において、結局同じなわけですよ。

褒めることも叱ることも、コントロールの一種である。

そう気付かされて、私は、子どもとの関係を根底から見直すようになりました。

褒める
叱る

■大人はだれしも❝虐待予備軍❞


やっぱり無知は恐ろしいですよね😱

どんなに酷い虐待も、最初は「良かれと思って」、「正しいことを教えてあげなければいけないと思って」、「間違った道に行かないように」との親心から、始まっています。
躾と称して子どもを褒めたり叱ったりするうちに、「叱る」で安易に得られる快感に依存し、歯止めがきかなくなっていく・・・💀💀💀


大人は誰しも❝虐待予備軍❞である、と言っても過言ではないと思います。
子どもと接する大人は、叱る行為が処罰感情を満たし、自己効力感を簡単に得られてしまう危険性と隣り合わせなのだという自覚が求められます。


とはいえ、叱らずにどうやって子どもを育てたらいいのか?そういう「叱る」依存沼からどうしたら脱出できるのか?と思いますよね😨

そのあたりについても、この書籍「叱る依存が止まらない」にしっかりと書かれていますので、ぜひ一度読んでみてください📚
1人でも多くの方に「叱る」という行為から始まる恐ろしい沼のメカニズムを知っていただき、虐待が決して他人事ではない、とご理解いただきたいと思います🙇



お読みくださりありがとうございました💕
また次回お会いしましょう🤗
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