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弱音はどんどん吐いていこう。


弱音は吐くな。


私の中にはそんなルールがなんとなくあります。


実際、言うと嫌がる人もいるし、人の気分を害さないという意味での配慮でもあります。

でもどちらかというと、
「弱音を吐く前に、自分の出来ることを考えてみろ、やってみろ」という気持ちが根底にあって、自分の出来ることを全部やりきった上でないとやってはいけないことのような感じがありまして。
そんな自分の中で勝手に決めた、”縛り”のようなものがあるような気がします。


こういう考え方は、世の中の流れを察してなのか、なにかのきっかけで自分が勝手に決めてしまったことなのか、それもよくわかりません。


でもなんとなく「弱音を吐く」は、
私の中で最終手段のようになっているのです。



しかし実際は、一人で踏ん張って何かをやり遂げようとしている人より、日々誰かに「出来ない」「助けてほしい」と言えている人の方が、周りに人がたくさんいることが多いような気がします。


自分よりも全然苦労してないのに、誰かが助けてくれている。
なんなら無事にやり遂げられたことを皆で喜び合い、気づけば仲間のようになっている。
一人で頑張っている自分よりも楽しそうにしていたりする。


一方で、一人で頑張る自分の周りにはほとんど人なんて集まりません。
何かをやり遂げても「良かったね」と言ってくれる人はいても、一緒にハイタッチするような仲間はいないのです。




なんで私は一人で頑張っているのに頑張りを分かち合える人がいなくて、弱音を吐く人には仲間も喜びを分かち合える人もいるんだろう。




はじめその現実に気づいてしまった時、腸が煮えくり返るほどの思いがこみ上げました。


だって、自分は努力をしているから。
出来ない出来ないと騒ぐ人よりも明らかに頑張っているから。

それなのに「出来ない」と騒いでいる人の方に仲間がいる、味方がいる。

なんでなの?




そんな気持ちが私の中で渦巻いていました。

そんなことを周りに実際に言うこともありました。
でも「だって、あなたは一人で出来るから大丈夫だよ」と言われました。



なんなんだろう、この差は。


一層私の中で黒い気持ちがうずまき、
嫉妬と同時に周りへの不信感も少し感じていました。





この休暇で、私は改めてその出来事を俯瞰して見てみることにしました。
すると、この流れは至極当然のことであるのに気づきました。



思えば当たり前のことなのですが、
人は「声を上げる人」のところに集まるんですよね。


逆に言えば、声を上げなければ人は集まらない。



どれだけ手伝える余裕のある人が周りにいても、
声を上げない限り、人は手を差し伸べてくれません。


なぜならば、自分の助けが必要とされているのかわからないから。


必要とされているかわからない人のところに「手伝うよ」と言いに行く人ってあんまりいないですよね。

家族や相当好意を寄せてくれている人が周りにいれば何も言わずに助けてくれるのかもしれませんが、現実には厳しいと思います。夫婦や家族であっても難しいものです。
それなら、明確にヘルプを要請している人のところに行こうと思うのは当然の流れなのだと思いました。


「助けて」と言っている人が本当にいっぱいいっぱいなのか、本当に人の手を借りないといけない状況なのかは、助けに行ってから初めて分かること。


しかも本格的に困り果てている時の重い「助けて」よりも、少し余裕のある時の「助けて」の方が、助ける方も助けやすい。
助ける側も、簡単に助けられて「人を助けた」という達成感を得られたほうが嬉しい。そんなコスパ的な観点もある気がします。



社会人になりたての頃は「助けてほしい時は早めに言いなさい」と言われていて、それを割と真面目に守っていました。
それは、社会人になりたての自分の能力がさほど高くないと理解していたので、周りに迷惑を掛けないためにもやったほうがいいことだと思っていたからです。


でも社会人生活が長くなっていくにつれ、自分の出来ることも増えていきます。そのため、一人で出来ることも増えていきます。



しかし、その分任されることも増え、大きくなっていく。



それがすっぽり抜け落ちていた私は、
「今の自分なら出来るはずだ」と思い込み、
一人で頑張ることに躍起になっていたのです。


これは、自分の身に余る仕事を抱えていることを理解出来ていなかったとも言えますし、自分の力を過信していたとも言えると思います。



「 一人で頑張る 」と「 独りよがり 」は紙一重なのだと気付かされました。



そして多分、私が思っている「弱音」は、
周りにとっては「弱音」じゃないのです。


一般的には、「こんなの出来っこないよ」っとぼやくのが弱音で、誰かに「助けて」ということは弱音とは言わない気もします。
ただ、助けを求めているだけです。


周りに助けを求めることは弱音ではなく、
出来ないことは、自分が追い込まれる前でも「出来ない」と言っていい。

人に助けを求める事自体は別に悪いことでもなんでもなくて、
自分の状況や適正を見極めて、自分でやるか仲間に助けを求めるかを考えればいいのだと気づきました。


どうしても周りに助けを求めることが「弱音」のように見えてしまうなら、無理して認識を変えなくてもいいと思います。


ただ、弱音を吐くことを負い目に感じる必要はない。
むしろ弱音を吐くことで、周りが自分に救いの手を差し伸べてくれるかもしれないのだし、その可能性を絶ってしまうのはもったいない


そんなことを思うようになりました。



世には助けを求めるのが上手で、「それくらい自分でやれよ!」と思うようなことも周りにやらせてしまう何でもお任せタイプの人がいるのも事実です。(笑)

私はそういう人にはなりたくない。
そう強く思いすぎて、つい一人で無理をしてしまうところがあります。
私に似たようなタイプの方は、そう思って頑張りすぎてしまう人が多いような気がします。

別に他人が信頼できないわけでも、全部自分でやりたいわけでもありません。ただ、「なんでもかんでも人に押し付ける人」にはなりたくないというだけなのです。


でも、おそらくなのですが……
自分でどうにかしようと思うタイプの人は、何でもお任せタイプにはなりません。というか、なれません。(笑)

なぜなら、それをやりぬく苦労を知っている人だから。


苦労を押し付けることになんの抵抗もない人なら、もともとこんなことには悩まないのです。



弱音に見えることもバンバン言おう、
周りに伝えよう。


ということを心に決めました。
そうすれば、少しずつでも自分の周りに人が集まってくるはず。


そしてそれにプラスして、

頼まれていない苦労を勝手にしない。


それも意識していこうと思いました。

一人でやれと言われない限り、別に自分一人で苦労する必要がないのです。
もちろん自分一人しか出来ないこともありますが・・・そうじゃないものは、極力一人で苦しまないようしようと決めました。


せっかく一人で頑張っても「独りよがり」なんて言われたら、悲しいじゃないですか。



だから、「独りよがりに見えそうなことは極力しない」と思ったのでした。






やっぱり心に余裕が出来ると、
色々な気持ちや考え方の整理が出来ますね。

最後まで読んでくださりありがとうございました!

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