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「根性」と出会い直す〜『スポーツ3.0』を読んで

先日、こんな本を読んだ。

著者はラグビー元日本代表の平尾剛。
現在は大学で教鞭を執りながら、これからの時代の新たなスポーツのあり方について研究をしている。

「何々2.0」とか「4.0」とか、OSの末尾の数字を模したようなタイトル付けやラベル貼りが昔から俺は大嫌いなのだが、この本だけは刊行時から是非読みたいと思っていた。
それには理由があった。

前から小出しにして書いて来たように、俺はスポーツを観るのもするのも好きな方だ。
中学から大学まで約10年競泳・水球に人よりは真面目に取り組んできたし、今でもそれらをはじめ、大相撲やボクシング、ラグビー、高校野球など好んで観戦するスポーツは幅広い方だと思う。
そして現在ではジム通いも2年以上習慣にできている。

それにも関わらず、2021年の東京五輪に、俺は一貫して反対を叫び続けた。
たった一人で。

当時はコロナパンデミックの緊急事態宣言下で、ほとんどのメディアは反対論者の根拠がそこにあるように報じてきた。
だが、そんなことは本来「どうでもいい話」だったはずだ。

そもそも賄賂を使って招致した疑いがあること。
エンブレムが盗用でデザインされたこと。
「金のかからない五輪」と嘯いておきながら、結果的に約3兆円近くの公金が浪費されたこと。
その過程で広告代理店など数多くのステークホルダーが汚職を働いたこと。
JOCの経理部長が謎の「自死」を遂げたこと。
森喜朗の女性蔑視発言をはじめ、多くの関係者がハラスメントに手を染めていたこと。
新国立競技場建設の過程で、都営団地の住民ら多くの市民が住む場所を追われたこと。
「五輪のための」ビル建設規制緩和によって、今まさに明治神宮外苑が死の危機にあること…。

たった数週間のスポーツの祭典のために、ここまで多くの人々の暮らしや尊厳が破壊され、蹂躙され尽くした。
スポーツにわずかでも本気で取り組み、少なからず生きる活力を与えられてきた自分としては、五輪のせいでそういった日々さえも汚されていくような気がして我慢がならなかった。

だから、SNSなどを通じて疑問を周囲に投じ続けた。
今も世界の五輪利権の頂点に立つ、音楽の父と同じ苗字を持ったあの白人男の顔や発言がニュースで流れるたび、頭に血が上った。
この前の記事ではないが、言葉が荒くなってしまったことも正直何度もある。

周りから理解は全く得られなかった。
親友からでさえ「そんな裏側のことばかり考えてたら生活できなくなる」と言われた。
あまりにみんなが「オリンピック」というものを当たり前に内面化している状況に、絶望もしたし憤りもした。
当時はかなり疲れる思いもした。
それでも、このことを「考えすぎ」の一言で片付けたくなかった。

だからこそ、当時同じく五輪に反対し続けていた平尾のメディアでの発言には、度々強く励まされる思いがしていた。
五輪の意義だけでなく、スポーツそのものの豊かさを根っこから問い直そうとする彼の姿勢には、気付かされることも多々あった。
例えばこういった記事。

現在でも平尾は、現代スポーツが抱える問題点を具に指摘しながら、その処方箋となる方策を具体的に提示し続けている。

そんな彼の思考の成果が一冊にまとまったのが、この『スポーツ3.0』だ。

内容は大きく分けると
・東京五輪や札幌五輪招致が抱えていた問題点
・「する」スポーツの本来の豊かさ
・「勝利至上主義」からの脱却(脱「競争主義」ではない)
・「根性」の捉え直し、テクノロジーとの融合

といった感じ。

読んでみて目から鱗だったのは、本書は「五輪に代表される現代スポーツの歪さへの解決策」以上に、もっと「人間的にスポーツを楽しむ」ための提案が随所にされているということだ。

こういった本にありがちなのは、シンプルに「根性」と「テクノロジー」を二項対立的に捉え、後者を礼賛するという記述なのだが、平尾はそこに逃げない。
むしろ、「根性」という言葉を読者に再発見させる。

平尾は、「根性」という語にもともと含まれていた「レジリエンス」的でより理性的なニュアンスが、メディアや研究の場での誤用によって捨象され、いわゆる「巨人の星」的な「根性論」に横滑りしてしまった歴史を暴き出す。
そこで、本来の意味での「根性」を、進化を遂げるテクノロジーに身体を任せきりにせず、「自分の体でできなかったことができるようになる=スポーツ本来の喜び」を獲得するために必要なものと位置付ける。


俺は「スポーツ指導」という点からすれば、かなり恵まれていた方だと思う。
高校時代の水球チームの監督は、日体大出身の元強豪選手だった。
だが、いわゆる「熱血監督」とは全く違い、指導は論理的で理性的だった。
必要以上に他校の監督とつるむこともしなかった。
怒鳴っているのを見たことすら、3年間でわずか1~2度だった。
もちろん手を上げられたことなど一度もない。
そんな中でも、チームは新人戦最下位から、県総体準優勝の実力にまで成長した。

監督の口癖は「頭を使え」
その分チームメイトと話し合ったり、自分で上手い選手のプレーを見ながら上達していく過程は、この上なく充実していたように思う。
まさしくそこには、本来の意味での「根性」があった。
自分が今でも、水球の試合をネットやプールで観るほどこのスポーツを好きになったのは、間違いなくこの経験が土台になっている。

一方で、大学時代に合同で練習をした少年チームの監督は、これでもかというほど選手を怒鳴りつけ、一回の練習の間に何度も暴力を振るった。
見学に来ていた保護者も黙認しているようだった。
そこにあったのは「根性論」だけだった。
幸か不幸か二十歳を過ぎてやっと、スポーツ指導の現実を目の当たりにした気がした。

自分があの頃五輪に違和感をずっと持ち続けていたのは、一つには「根性」を履き違えない姿勢を植え付けられていたからではないか。
「人類がコロナに打ち勝った証」
「夢や感動や希望を与える」
「もう決まったからには成功させなければ」
そんなあやふやな「根性論」に逃げず、常に本質を見つめながら「根性」を持ってスポーツと向き合うこと。
その土台を「する」スポーツを通じて知らず知らずのうちに築けていたのだ。

そして『スポーツ3.0』は、不幸にしてそんな機会に巡り会えなかったスポーツに関わる人々(平尾の視点では、これは人類全てを指す)に、もう一度スポーツの喜びに出会い直させてくれる。
そんな一冊だ。

春から仕事がフルリモートになるので、ジムに充てられる時間が増える。
頑張れば、水球選手時代の体をもう一度取り戻せるかもしれない。

あるボディビルダーの言葉が思い浮かべて気持ちを奮い立たせる。


これは…「根性論」、だな…。


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