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ここへ来て、本の執筆作業が大詰めを迎えてきて、平日だけでなく休日もほぼPCに向かいっぱなしである。

書いている本の内容は、以前「無名人インタビュー」様にインタビューを行っていただいた以下のような感じ。

共著なので書く分量自体が多いわけではない。
だが、特に予備知識の無かった分野まで自分が書くことになった章もあり、インプットとアウトプットを同時にやらなければならないのが悩ましい。
そんな脳の自転車操業に加え、割り当てられた字数が極端に少ないため、なまじたっぷり書かされるより頭を使う。
普段このnoteに割いている分量よりも少ない。故にかなりキツい。

おまけに前回書いた通り、年の初めからいきなり父親を亡くしてしまった。
実家から遠く離れた関東に住んでいるので、一見スケジュール的には関係なさそうに見られるかもしれないが、これが大有り。
遺品のスマホの後始末のために、ほぼ毎週Apple Storeに通うことに。
俺のようなど文系人間には酷すぎる、完全無欠にして複雑怪奇なセキュリティについてのご高説を小一時間聞かされ、アナログ人間の多い親族に原理をどう説明しようか作戦を立てる。
これで休日の体力の4割は吹き飛ぶ。

そんなわけでここ最近はnoteの更新も滞っている。
書くのに人生を賭けると大見得を切った割にはそこまで筆まめな方でもないので、意識が離れるとどうもネタが湧いてこない。
どちらかというと、書くならがっつり時間をかけて書きたい方なので、ポン!とネタが浮かんでも時間を置いて寝かせたくなる。
したがって、基本的には書きたいという熱量が持続したネタしかnoteには残らない。
これって書けない人間の典型なんだろうが、とにかく今は状況が状況なので仕方がない。
反省はしている、はず、多分。

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「分人主義」という言葉をご存知だろうか。
一人一人の個人の存在を、これ以上分けられない「Individual」な存在とするのではなく、その個人の内にも、分解可能な多様な「分人 Dividual」が併存しているという考え方だ。
作家の平野啓一郎が提唱した考え方で、最近知ったのだが公式サイトまで存在する。

平たくいうと、「本当の自分はひとつじゃない」という考え方だ。

昔、こんなCMがあった。
ある会社で、外国系の上司が日本人の部下を厳しく問い詰めている。
ところが、終業のタイムが鳴った瞬間に、その外国系上司は「さっきはゴメンネ〜!!」と超フランクに部下と肩を組み、夜の街に繰り出す。

この上司の言動は、「オンとオフをきっちり切り替える外国人」という文脈で表現されたものだったのだろうが、別に人種や民族に関係なく、こういったことは日常で見られないだろうか。

仕事とオフでの気持ちの持ち方はもちろん、一緒にいる人間のタイプや居場所によっても、自分の振る舞いやキャラが変わっていることなどいくらでもある。
問題は、そこで「本当の自分は何なんだろう」と悩んでしまうことであったりするのだが、そもそもそんな悩みを持つ必要などないのだ。
よくある結婚の決め手として、「あの人といるときの自分が好き」というのがあるが、分人主義に従えばあながち間違ってもいないのだ。
分人主義とは、より深く自分を愛することができるようになるための考え方でもある。

自分の場合は、それが書き言葉に極端に現れる。
インスタに書く場合(ポストかストーリーかでも違う)、紙に書く場合、noteに書く場合、LINEに書く場合…
文体の振れ幅が人より大きく広がっているのが自分の特徴だと思う。

シンプルな言葉で想いを表現したいときは、できるだけ感情に任せて思うまま、短時間で書く。
この結果、だいぶパリピっぽい輩のような言葉づかいになることが多々ある。
そして時々友人知人に怒られる(反省は、している)。

逆に、感情を排して論理的に緻密に書きたいときは、学術論文に近い形で厳密な書き方をする。
必要に応じて単語の一つひとつ、句読点の位置までも吟味するので、必然的に書く時間は長くなる。
まさに、今取り組んでいる本はそんな書き方をしている。
だからこそ長い時間がかかるし、何より疲れる。

noteは、その二つの中間ぐらいのスタイル。
まあまあ気楽に書けるけど、詰めようとしたらいつの間にかこだわっていたりする。

不思議なのは、どのようなスタイルで書いている時も、「自分の言葉で書いている」という実感があることだ。
ちょっと抽象的な言い方をすれば、借り物でなく自分の血肉になっている言葉で書けているという感覚。

これはどう考えても、大学院の頃の経験が影響していると思う。
大学院では、自分の理解の及んでいない言葉や語彙をそのまま使うと、すぐに見破られた。
「本当に自分でそう思っているのか?」と、ど詰めされる。
書き手が自分で思っている以上に、熟達した読み手は、書き手がそこで選んだ言葉をどれだけ大事にしているかを正確に判断できる。
こういった環境下で、「論理的に書くスタイル」は徹底的に磨かれた。

だからこそ、どんな意識下で書いた言葉でも、自信を持って「自分の言葉」としてアウトプットできているのかもしれない。
奇を衒った表現やスーパー個性的な語彙ばかりが「オリジナル」というわけではない。
そういう意味では、書き言葉においてこそ自分は「分人主義」を徹底できているのかもしれない。
パリピであろうが執筆者であろうが、そこに「本当の自分の言葉」という尺度がそもそも存在しないからだ。

どんなスタイルで書いても、それが自分の書き方。
そんな感じで、今以上に気楽にかつ厳しく、言葉と向き合っていけたらと思っている。


ちなみにこの記事は、noteに「2月29日までに書けば毎月投稿を達成できますよ!」とせっつかれて書いた。
特に原稿料も出ないのに、こういうことを言われると書きたくなる。
こういうのに振り回されずに、自分のペースを守りたいよなあ…。


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