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硬く冷たいステンレスで美しい温かな曲線を描き、多くの奇抜な作品を残した作家がいる。

池田桂一

1960年8月1日、熊本は玉名のミカン農家の家に生まれる。
家業を継ぐべく農業高校に進むも、ある年にミカンが大暴落しその道を断念。
大学に進み教員免許を取得するも採用は叶わず、以後職を転々とする。
ある時期に働いた町工場でステンレスの研磨を習い、その美しさに衝撃を受け、これが彼の人生の転機となった。

ステンレスとの格闘はやがて池田のライフワークとなり、1995年に独立。
「有限会社向日葵工芸舎」を立ち上げる。

彼は求められればなんでも作った。
どこにでもあるオフィス製品から、実験動物施設の檻、コーヒーの焙煎装置、果ては演劇の舞台装置の部品や、地元サッカーチームのモニュメントまで…。


腕の立つステンレス加工職人がいるという噂は、確かに熊本中を駆け巡っていた。
メディアに取材されれば、その豪快で気さくな人柄で取材者を大満足させた。

しかし、彼はそれでは飽き足らなかった。
ステンレスは単なる彼の食い扶持のみならず、何か自分の衝動を表現する手段と化していた。

2000年前後から彼は、ステンレスを用いた造形活動を始める。
試行錯誤は早くから実を結び2002年、ヘッダー画像の作品「Leave for Hope」が、熊本県文化協会賞を受賞する。

彼の培ってきた技術は、一見すると共存不可能なステンレスの硬さ・冷たさと、曲線の美が放つ柔らかさ・温かさを見事に結びつけた。
ここから池田の創作活動は本格化し、度々個展を開くまでに多くの作品を創り上げた。

彼は自分の制作した作品に執着しない人間だった。
彼の創作した作品は、そのほとんどが破棄されている。
自分の生きた証を残すことにほとんど無頓着だった。
その徹底ぶりは、周りの美術関係者をも大いに驚かせた。

彼は岡本太郎を敬愛していた。
作風もよく見れば岡本に似ている。
岡本の眼や生き方を、可能な限り吸収しようと努めていた。
作品に執着しない部分も、もしかするとその影響の一部だったのかもしれない。

その豪放磊落な人柄から、彼の周りには多くの人が集まった。
あるコミュニティの飲み会に参加していても、突然いなくなることがあった。
他の飲み会にも呼ばれていたからだろう。
それくらい彼は人気者だった。

ただ、そういった外の顔とは裏腹に、家庭では典型的な「九州親父」だった。
男尊女卑的な言動は標準装備、作品で得たはずの金はほとんど家に入れず、妻を呆れさせた。
そのくせに家に帰れば酒をあおり、一端の知識人ぶって夢や理想を大きく語った。
家族に黙ってはるばるアメリカまで放浪し、こっそり息子に事後報告したことも。
果てはこのご時世に飲酒運転をやらかし、逮捕寸前までの事態になったこともある。
家庭を持つ男としては、とことん、どうしようもなかった。

だが、息子がうつ病で働けなくなり困窮した時は、多くを語らず生活費を援助した。
「お前は絶対に大丈夫だから」と、ただそれだけの理由で。
素行はアレでも、確かに人情は持ち合わせた男だった。

なぜそんなことまで俺がここに書けるのか。
何を隠そう、池田桂一は俺の父親だ。



その父が、2024年1月12日、亡くなった。
63歳の若さだった。



突然の脳梗塞だったそうだ。
不整脈持ちだったにも関わらず、実家のミカン農家の手伝いや自分の仕事に見境なく取り組みすぎた疲れが祟り、血栓を脳にまで飛ばしてしまったのでないかということだった。

母親から死の直後に連絡を受けた。
実は年明け6日に倒れているところを発見され、1週間集中治療室で救命処置を受けたが、意識が戻らぬまま旅立ってしまったそうだ。
母親はその間、俺に心配をかけまいと一度も連絡をしてこなかった。

死の知らせを聞いた瞬間、部屋の温度が急激に下がり、震えが止まらなくなった。
後から気づいたが、これが「血の気が引く」ということだったんだろう。
震えの止まらない身体で会社へ忌引の連絡をし、飛行機を取った。

空港へ移動する前、いつものカフェに寄った。
こっちにいるときぐらいはいつも通り過ごした方がいいと思った。
だが、目の前にいつもの美味しいコーヒーが出されても飲む気がしない、手がつけられない。
仲のいい店員さんにまで、「何か悲しいことがあったんですか?」と心配そうに聞かれてしまった。
元々顔に出やすい方だ、親が早くに死ぬなんて意味の分からなさすぎる事態に打ちひしがれていれば尚更だろう。

眠っているような死顔を見ても、夢を見ているようであまり実感が湧かない。
家に帰れば、車の音がしてそのうち帰ってくるんじゃないかと思った。
火葬を済ませてお骨を壺に納め、自分で抱えて帰ってもその感覚は変わらなかった。

葬式の次の日からは工房の片付けに出た。
父が倒れた時のそのまま、主を失ったにも関わらず、工房も彼の帰りを待っているようだった。

ほぼ1週間で、残された廃材や作業台など、大きな遺品はほとんどが処分されお金に変わった。
工房が一気に広くなった。
人が死ぬと、その痕跡はこんなにも早く拭き取られてしまうのだろうか。
多少の虚しさも覚えた。

葬儀が家族葬だったこともあり、次の日から多くの方が弔問に訪れて下さった。
ほとんど全員が泣きながら彼を悼んだ。
破天荒な彼の生き方に皆が惹きつけられていた。

薄々勘付いてはいたが、他ならぬ自分もその一人だった。
いつの間にか俺も、岡本太郎のように生きたいと考え始め、著書を読み漁っていた。
うつ病だった時期には、岡本の言葉を通じて父が励ましてくれているようでもあった。
生きる道は違えど、生き方という点では結局父のあとを追いかけていた。

父は俺の生き方についてあれこれ指図しようとしなかった。
その代わり、その作品と背中で、
「既存の価値観にとらわれるな、自分自身の眼を持て」と、
幼少の頃から無言で何度も俺に教えてくれた。
その教えを結局今も、俺は忠実に守っている。


あまりに忙しすぎてほとんど何も感じないまま東京へ戻った。
父の残した作品の一つ、小さな立方体のオブジェと一緒に。

部屋で彼の好きだった吉田拓郎のレコードを聴きながら献杯した。
「人生を語らず」の聴き慣れた一節が流れる。

越えていけそこを、越えていけそれを
今はまだ、人生を、人生を語らず

酒の勢いも助け、その瞬間、やっと大声で泣けた。


これから先、自分の心がどう動いていくかは分からない。
それでも一つだけ絶対に忘れてはいけないのは、
池田桂一という大芸術家が、この世に確かに存在したことだ。

蝋燭の火が消えるみたいにあっさり逝ってしまったけど、
人生どうでしたか?楽しかったですか?
みんながあんたの死を泣いて惜しんでるよ!たくさんの人に愛されてよかったね。

俺はまだまだ人生語らないよ。
これから先も越えていくものがたくさんあるから。
あんたの越えられなかったもの、越えたかったものも俺たちが引き受けていくから。
だから、上から見といてくれよ!

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