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世界にひとつの距離

年に数回、家族が全員集合する。
地方移住して田舎で暮らす七十代の両親の家に、私たち四十路越えの子どもらが集まり、わいわい過ごす数日間。私もきょうだいもそれぞれ仕事や予定があるので、到着するタイミングや滞在日数をぴったり同じにするのはなかなか難しい。別々に来て、別々に帰っていく、でもできるだけ長く重なるように来る、その暗黙の感じが私はけっこう好きだ。

そんな帰省スタイルが、今年の夏は少し違った。急な出張できょうだいの予定が変わったことで、途中で合流し、同じ日の同じ電車で帰れることになったのだ。

私は、はりきって切符を取った。合流地点からなら、新幹線よりも特急列車を使うほうがラクだし、断然空いている。せっかくだから、駅ビルでちょっといいお弁当を買って車内で食べよう。ビールも忘れずに用意しなきゃ。
いつもよりちょっとワクワクしながら当日を迎えた。

遠くに見えるシルエットだけで家族とわかるのは、どういうわけだろう。一緒に暮らしていた時間ははるか遠くになり、その頃とはお互いにずいぶん変わっているのに、歩き方、背中の丸め方、なんだったら気配だけで、わかってしまうから不思議だ。
半年ぶりに会うというのに、実家の廊下ですれ違う時くらいのテンションで近づいてくる。第一声は、「おなかすいた〜」だった。

時間はお昼少し前。さて、何を食べようか。
肉もいい、魚もいい、じゃあどっちもだ!ということで、カツサンドと焼き鯖寿司をシェアすることにした。

ホームに電車が入ってきて、旅気分がぐっと盛り上がる。
座席の四割ほどが埋まっているが、これでも普段の平日に比べると混んでいるほうだ。新幹線より少し遠回りになるこの特急はいつも利用率が控えめで、他人が隣に座ってくることは、まずない。そののんびりとした感じが好きで私は時々使っているが、きょうだいは今回が初めて。意気揚々と乗りこみ、車両最後部の窓側席に、前後に並んで腰を下ろした。

隣ではなく、前後の並びで席を取ったのは、それくらいの距離感がちょうどいいと思ったから。お互いに気を遣わず、心地よく旅を楽しみたいと考えたら、自然とそういう判断になっていた。
出張終わりで仕事が残ってるかもしれないとか、積もる話は両親も一緒に聞きたいだろうから実家に着くまでとっておこうとか、そういった理由もあるにはあったが、それ以前に、「私ときょうだいならこうだよな」という、言葉にはしづらい、でもたぶん間違っていない直感のようなものに従ってのことだった。

その感覚がどこまで同じだったのかはわからないが、きょうだいは特に何も言わず、私の一列前に座った。荷物を降ろし、大きな窓の横で大きく伸びをしている。どうやら仕事をする気はないようだ。
さっそくカツサンドと鯖寿司を半分ずつ入れ替えて、家から持ってきた冷え冷えの缶ビールと一緒に渡す。これでスタンバイOK。電車がゆっくりと動き出した。
少し郊外に出てから飲みはじめたい私を待つことなく、さっそくプシュッと開ける音が聞こえてくる。お互いの缶を持ち上げて乾杯したら、さあ、出発だ。

私自身がそうであるように、きょうだいにもきっと、両親の子どもに戻るスイッチの入れ方があるはずだ。私よりもずっとハードな世界で日々戦っているから、気持ちの切り替え方もきっと私とは違うだろう。こうして一緒の電車に揺られ、同じ景色を見ながら、それぞれのペースで家族モードへと入っていけばいい。そう思ったのだ。

「鯖うまい!」「醤油、足たりてる?」「富士山どっち側だっけ?」
たまに交わす言葉は短くて、でもなんだか気分は楽しくて。一人で帰省するのとは違う、友達や恋人との旅行ともまた違う、この組み合わせでしか生まれない緩さと安心感に満ちた空間がそこにあった。

一人でも、二人でも、電車で飲むビールは格別。
ゴムを巻いてるのは、缶の背中に保冷剤をひっつけているから。

同じ親から生まれて、同じ家で育って、同じ思い出をいくつも持って生きている。そんな存在は、この世できょうだいしかいない。よく考えたらすごいことだ。
すごいことなのだが、自分から望んで手に入れたものではなく気づいたらそういうことになっていただけなので、当たり前のように受け入れていた。過剰に執着することも、激しく否定することもなかった。
今だって、お互いの人生に大きく影響しあっているかというと、正直言って、そうでもない。でもそれは「大切じゃない」ということとは全然違って、そもそも大切かどうかを考えるような対象ではなくて、私にとっては「いる」ことがすべてな存在、それがきょうだいなのだと思う。

そんな禅問答のようなことを考えていたら、クリームチーズの味噌漬けが窓沿いにパスされてきた。実家へのお土産に買ったはずなのに我慢できずに開けちゃうところとか、やっぱり似てるんだなあ。つまみながら、ロング缶にしとけばよかったなと思った。

頻繁に会わなくても、隣に座らなくても、こうしてずっと、きょうだいでいられる。世界にたったひとつの関係は変わることなく、これからも続いていく。
財産、というと大袈裟だろうか。でも、こんなに確かで揺るぎないことって、世の中そうそう見つからないよな、とも思うのだ。

列車は走り続け、乗客を少しずつ降ろしていく。思った通り、どちらの隣も空席のままだった。
次の駅での停車時間は少し長いとアナウンスが流れた瞬間、前でくつろいでいた背中が急にすくっと立ち上がった。ホームの売店でビールを買い足してくると言う。以心伝心、やはり血のつながりはすごい。
軽やかとは言えないフォームで走っていく姿がおかしくて、窓越しにずっと見ていた。ああ、楽しいなあ。「きょうだいがいる人生」を与えてもらったことに、改めて感謝したくなった。

実家の最寄り駅に着くと、両親が待っていた。
手を振って迎える父。二人そろって帰ってくるなんてうれしいわ、と笑いながらなぜか涙ぐんでいる母。
泣き笑いのその顔を茶化しながら、こんなことで喜んでくれるなら何度でもしよう、と思った。少し前を歩いているリュックの背中も、同じ気持ちでいるのだとわかる。
だって私たちは、きょうだいだから。
この父と、この母と、私たちきょうだいだけの、家族だから。

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