いとうト゚む

ひとたびでたひと 2度の大学中退 2度の自殺未遂 IQ137(CAMS)

いとうト゚む

ひとたびでたひと 2度の大学中退 2度の自殺未遂 IQ137(CAMS)

マガジン

最近の記事

密度、濃度、圧縮、希釈

一度に人間が処理できる情報には上限がある。それを超えれば情報氾濫で頭がスタックオーバーフローし煙を上げて停止する、という言う事にはならず、むしろそれだけの情報にさらされると、適切な判断力を失い自分に都合の良い甘言だけを聞き手痛い選択をし這々の体で帰路につくことになる。逆に、処理する情報量が少なすぎると見るのも聞くのも退屈し、処理自体をやめ別の情報源へと目移り耳移りしてしまう。そう考えると、情報には固体的な密度や液体的な濃度が存在していて、それらを適切な帯域にアジャストするため

    • モノカキ

      どうしてわざわざ小説なんて書きたいと思ったんですか?いえ、責めてるわけでも煽っているわけでもなくて、むしろ凄いなって思うんですよ。私なんかは本読みなので、本が好きって気持ちは人並み以上にあるんですけど、やっぱりどこまでも読者で作者ではないんですよね。それに創造主よりも被造物が好きっていうか、神よりも人間ラブなんですよ。だから、小説を書こうって気には特になれなくて、そう思える人っていうのはどこかで自分にも出来そうだって感じるからやるんですよね?でも、小説を書くってとっても大変じ

      • 受胎告知、大忙し

        そこかしこで処女懐胎が頻発している。父親の不在が流行っているのだろうか。物語には欠かせないからといって、ニンフが妊婦にいたずらをするのはちと神話が過ぎる。

        • 需要が供給を再び追い越す

          ガルブレイズのゆたかな社会でも、ボードリヤールの消費社会の神話と構造でも、供給が需要に先行するようになったと言及されていたが、midjourneyでデザインした服を実際に縫製したり、本人の体調や体質に合わせたオーダーメイド医療、各人の進捗や能力に合わせたオーダーメイド教育など、技術の進歩により再び需要が供給を追い越し、供給が足りなくなるといった現象が起きるかもしれない。オーダーメイドが足らず既製品のラグジュアリーなプレタポルテが受け入れらるような、離散的な供給に連続的な需要を

        密度、濃度、圧縮、希釈

        マガジン

        • 才ヌヌ〆
          30本
        • 枝葉節
          13本
        • ひとたびたびでる
          4本

        記事

          (()...)

          「今日やったことを書き留めろ」 「はい、今日は授業の手伝いと、その前に机を拭きました。ゴミを片付けて、箒もかけておきました」 「ああ、いい。細かい細かい。これは日報なんだから、適当に書き留めればいいんだよ」 「そうはいきません。あと、トイレの掃除もしました。黒板を拭き、黒板クリーナーを叩き、クリーナーのカスを拭っておきました。」 「終わったか?」 「あとは、そうですね、日報を書きましたので、日報を書いたと日報に書いておきます。ああ、日報を書いたと日報に書いたことも日報に書いて

          疲れていると人はなぜ本が読めなくなるかという本を、疲れた人は読めるのか

          読んでない(疲れていたからではない)ので知らないけれど、きっと読んだのだろう。有名になったから僕の耳にも入ってきた。人の認知には限度がある、認知コストの高いタスクを続ければ疲弊し、愚かな判断をしたり、認知コストの、 高いタスクに挑むのに回復を待たなければならない。こんな内容の本なのだろうと予測したうえで、ではなぜ疲弊したサラリーマンはこの本を読む/読めるのだろうか。きっと自分の状況に刺さっていると感じて認知の別腹が生まれたのだろう。別腹は科学的に存在する。オレキシンという物質

          疲れていると人はなぜ本が読めなくなるかという本を、疲れた人は読めるのか

          思考の図と地

          事物には良い面と悪い面がある、というわけではない。事物は良くも悪くも捉えることができる。つまり、事物の解釈に一義性はなく、多義性がある。そして、この多義性という概念自体も、一義的に捉えられるわけではないという矛盾を孕む。これは、人間の認知の限界による問題だけでなく、原理的に全ての側面を渉猟することが不可能だからである。人間はすべての情報を瞬時に理解することはできないため、直感的に感じる方を瞬間的に採択する傾向がある。これは、良い面が見えやすい人には良いと、悪い面が見えやすい人

          賢いってバカにされる

          かしこい、と言われる機会が増えてようやっとこさ気付いたのだが、かしこいというのはどちらかといえば無意識的な侮蔑、あるいは意識的なブランドの賞賛であることがおおおい。まずかしこいという言葉は目上に使うと違和感のある言葉だ。子供が親や教師をかしこいと評すればどこか心にしこりが残る。そんな目上目下を選ぶ言葉のようだ。そして、人が人をかしこいというとき、人はその発言者の言動を理解していないことが多い。それでも何かすごいことを言っていそうだとほめておこうと、一周回ってさげすまれた侮蔑が

          賢いってバカにされる

          下ネタに感動して人に還る

          最近、バキ童チャンネルの動画をよく見ている。以前であれば土岡さんのニート動画やぐんぴぃさんのブックオフ店員時代の話で勇気をもらっていたのだけれども、最近はアニマルセックスクイズで自分の常識をタコ殴りにされ、旅をした時と同じ感覚を知識で味わされた、ちょっと屈辱だ。さらに、サブチャンネルで『ウーマンコミュニケーション』という作品をプレイしていて、前から気になっていたタイトルだったので前のめりで見た。感動した。人は感動するために生きているのかもしれない、そう久しぶりに思えた。開発者

          下ネタに感動して人に還る

          社会の金玉を蹴り上げろ

          自己輸入の薬を赤ワインで煽って、会社でラリってしまった。当日の記憶がない僕はハングオーバーのように自分が話した会話やしてしまったか行いについて各人に聞いて回った。Linuxや42について語っていたらしく、とても理性的だったという彼らとは裏腹に、僕にとたんにそっけなくなった一人の男は僕に以前、遺書なる文章を送りつしてきたやつだっだ。その夜、会社と家を二三往復して帰宅した僕は台湾にいる友達と電話し、復讐、と筆ペンで書いた紙を口に頬張り入れ嗚咽を海越しに轟かせていた。その翌日、イベ

          社会の金玉を蹴り上げろ

          u9b31

          孤立したインスタンスはガベージコレクションに削除されてしまった。 きっと、シンタックスシュガーなんてないんだ。 エントリーポイントからやり直したいのに。 ブードゥープログラミングに祈りを込めて 今日も車輪の再発明。 ルンルンもすぬけもこちらを見ている。 心臓のカウンタ変数がインクリメントを告げる。 よどみから這い出るようにエスケープシーケンスをかける。 --abort完了だ。

          シシフォスの春

          エアコンから水が垂れている。 店員に指摘をしたのは隣の客だった。 店員は何処からか持ち出してきたモップで床を拭き続けていた。 垂れた雫は床で弾け、周りに四散するのを見届け、水を床にモップで塗りたくる。 ポツネンという音を合図に、店の制服を着た女性はモップを前後に動かす。規則的に、一定のリズムを保ちながら、世界の秩序を守るように、丁寧に拭いていく。滴っては拭き、拭いたそばから降り頻る。やがて店は閉店の時間となり、店の電気は落とされ、エアコンからはもう水が出なくなっていた。気づけ

          シシフォスの春

          ヌルい

          ぬるい、なまぬるい。このぬるさなら、蝋で固めた翼でも空を目指して飛べそうだ。これでいい、間違いない。ほんとうにそれでいいのか?このまま空なんぞを目指して飛び続けることに意味なんてあるのか。空は青くて広くて空虚だ。もっと熱くなれ、自らの火で身を焦がして自由を振り切って地上に徒花を咲かしてやるよ。血で満たした無に還ってこう。

          読むより書くほうがいい暇つぶし

          読むと肩身が狭いが、書くとどこにいってもいい。自分が結びつける先も自由、なんでもいい分エネルギーは使うが、それだけ頭も心も使うので、暇つぶしとしては上質だ。

          読むより書くほうがいい暇つぶし

          端数の経済

          旅をしていて、支払いの際にお釣りをもらう際に、現金がないからもっと少額紙幣で払えと散々云われた。こうして考えてみると、日本では市中に出回る現金の量が多く遍く広がっているため、電子マネーの普及が遅れたと言われていることにも、肌感覚で納得がいく。一方で、利子や為替などの影響で小数点以下の金額が発生する。こうしたマイクロマネーは個人レベルの記帳の際などには表示されないし、全体の分母からすると大した金額ではないので、意識の外に置かれ、実態としてどうなっているか分かりづらい。こうした事

          余生みたいに戦いたい

          自殺未遂をしてから自分の人生はボーナスステージだという感覚を抱いているのだが、ここ最近は忙しさのせいか、歯車としていきる圧力を感じる。こういうと労働による疎外みたいな話だが、そうでなく決まり切った時間を他人と時計の針を合わせて生きることがとても苦手なので、単純にに不得意分野をやらざるを得なくなっていることに対する辟易がある。あらためて弱いのだという自覚とともに、自分が進むべき方向がまた見えてくるようだ。うまずたゆまずとはいかないが、やまずすすまずというわけでもない。病んでも進

          余生みたいに戦いたい