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才ヌヌ〆

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記事一覧

栄養としての食事とエンタメとしての食事

食事には栄養摂取とエンターテイメントの二側面がある。
おいしいステーキはタンパク質も摂取できるし、食べてて楽しい。
青汁やプロテインを食事といっていいか分からないが、これらはつまらない代わりに、足りていない栄養素を補える。その点、ポテチやカップヌードルは食べてて楽しいが、栄養という観点ではほとんど食べる意味がない。
現代では一般的に、健康的な食事を謳っている商品ほど値段が高い。これは健康という商品

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バッググラウンドムービー

なにかの作業をしながら音楽を聴くのは昔からやっていたのだけれども、ここ数年は何度もみたアニメや映画を流しながら作業をする。個人的にこれをバックグラウンドムービーと呼んでいるのだが、何度も観ている作品でも聞き流していると毎度発見がある。というよりそういった玉ねぎみたいな作品が好きなのだと思う。あとは、言葉をたくさん話してくれている作品のほうが好きのようだ。

世界は縦長か、横長か

縦型動画が流行っている、なんて言葉に出すようでは流行に遅れていると思われるほど縦型動画が席巻している。しかし、人間の視野角は左右では180°以上あるものの、上下では130°程度であり、生態的には僕らは世界を横長で捉えている。高柳健次郎が作った世界初のブラウン管テレビは円形だったものの、これは技術的な制約を受けてのものであり、それ以降は映像装置は横長に進化していった。人は元来、横長世界の住人といえる

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ライ麦畑でつかまえて、という誤訳は名訳

サリンジャーの小説、ライ麦畑でつかまえて、は村上春樹訳だと原題をそのままカタカナにした、キャッチャー・イン・ザ・ライ、と著されている。そのため、野崎孝訳である、ライ麦畑でつかまえては誤訳である、という意見を見たことがある。
そもそも、このライ麦畑の捕手というのは、背の高いライ麦畑が崖だかに生えており、そこで子供が遊んでいると誤って落ちてしまうので、そうならないように捕まえて元に戻してやる、そんな人

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旅に出て初めてメンサで良かったと思えた話

僕はメンサという、いわゆる高IQのコミュニティに入っているのだが、日本では大して活用してこなかった。精々ボードゲームをしたりクイズをしたり、社会人クラブという感じで、仲の良い友人が数人できた程度であった(それだけでも十分なのだが)。しかし、メンサは国際組織、旅に出るのに使わない手はないとそのことを相談すると、各国の人がその国を訪れた人をコーディネートしてくれる仕組みがあることを教えてもらった。

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無能な善意が人を貶める

ハンロンの剃刀という言葉がある。曰く、無能を悪意と取り違えてはいけないというやつだ。善意か悪意かは、その能力と本来なんら関係はない。にもかかわらず、誰かの言動に際して不利益を被ったときに、人はそれを悪意と見なす傾向がある。悪意であることもあるだろうが、大抵は無能で十分に説明がつくケースが多い。おそらくそれは、できるからやる(I can therefore I do)という言外の了解に立っていること

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固有名詞の力と嘘

メモ帳に語彙語彙スーというタイトルで、普段出会った固有名詞を記録している。
僕は、品詞の中で固有名詞が一番偉いと思っている、と同時に、会話の中で固有名詞を乱発する人間をちょっとだけ軽蔑もしている。
固有名詞には、力と嘘がある。
まず、検索に強い。学術用語や地名、人名などは他の言葉では代替が難しく、書き手もこれらの言葉を載せているのでタグを見つけやすく、検索エンジンで拾ってきやすい。それが故に、流行

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分かっている人ほど平気で分からないと云う

しょっぱい処世術だが、何かを聞いたときに、わからないなあ、という言葉で始める人は信用が置ける、ような気がする。世の中は複雑で、一人間が取り扱える情報には限りがある。認知は有限なので、何か一つの原因に帰属させたり、銀の弾丸のような万能の解決策はないし、あったとて理解できない。しかし、何かを判断しなければならないとき、人は自信のある人や断言しているを信奉してしまう。なぜなら、自分には理解できない領分に

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飼いならしたうつ

うつがひどかった時期に書いた文章や描いた絵を見ていると、鋭いな、と感じる。自分が好きな世界を作っているから刺さるのは当然なのだが、うつを克服した今の自分はなんだか生ぬるい、とも思う。うつで苦しんでいる時期は脱したくて仕方がなかったのだが、なくなってみると、うつによって得ていたなにかがあったのだという感覚を抱く。何かを失ったのにそれがなにかわからない喪失感がうつの原因だと思っていたが、逆にうつを失っ

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認識のざらつき

良いデザインは融けている。もちろん意識に上りデザインが前面に来る類のものもある、特に建築だとそうだが、基本なだらかな表面で滑りがよく滞りなく流れていくようなものが良いデザインである。僕らの身の回りの事物はほとんどが人工物で、人によってデザインされている。なので特別な認識を持たずとも扱えるようなデザインに整えられている。しかし、この何が融けるかというのには文化差がある。なので海外に来ると、身の回りの

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包摂の倫理

SDGsに当てはまらない問題なぞないのではないかというほど、SDGsは手広い。ここには包摂の倫理がある。問題を問題として認識すれば、解決策を考える人間が生まれる。だから、問題提供者や組織運営者はあらゆるものをその部分として持つ集合として大きくなっていく宿命を背負う。これらがその速度を増すと、援助よりも承認のほうが重視されるという状況が生まれる。絶対的貧困への経済的援助よりも性的マイノリティの社会的

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数学への片思い

一昨年が人生で一番数学をやった年なのだろうが、そこで感じたのは僕に数学に対する思いは一歩通行だ、ということだ。僕の方からは理解したいし、振り向いてほしいと何度も口説いた。それでも、高貴な数学嬢は僕の言葉に見向きもせずどこか一点を見つめていて、時折僕の言葉に反応してこちらを向いたかと思えば、またぷいとそっぽを向いてしまう。猫のよう、なんて可愛らしい感じでもない。僕が犬になる、というところまでいければ

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斎藤さん型セックストイ

行きずりのセックスは気持ちがいい、らしい。特に知らないのだけれども、責任感と無縁の性的快楽が精神心的な増粘剤になって、後腐れなく心地よいそうだ。ただ、今の時点では、出会いとホテルまでの段取りが煩わしい。そこで、black mirrorの世界でも描かれたヴァーチャルなセックスが可能になった世界では、身体的に近い精神的充足という意味で間身体的な快楽を手に入れる。それだけでなく、異性の快楽や複数人同時の

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生産性の悪魔

遊ぶと楽しいのだが、後ろめたさが後からにょきにょき生えてくる。"クリエイティブ"な作業を怠った日は、何かと取りかえそうと夜な夜なアイディア帳を開いては、睡魔に勝てず寝落ちする。その背後には、いつも生産性の悪魔が顔を覗かしている。一体全体、これは誰に対しての生産性なのだろうか。実は、楽しんでいた遊びに退屈していたのではないか。好きでやっている創造的な作業が苦痛なのではないか。未来の自分から今を翻った

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