無能な善意が人を貶める

ハンロンの剃刀という言葉がある。曰く、無能を悪意と取り違えてはいけないというやつだ。善意か悪意かは、その能力と本来なんら関係はない。にもかかわらず、誰かの言動に際して不利益を被ったときに、人はそれを悪意と見なす傾向がある。悪意であることもあるだろうが、大抵は無能で十分に説明がつくケースが多い。おそらくそれは、できるからやる(I can therefore I do)という言外の了解に立っていることが一因なのだろう。
しかし、もっと厄介なケースがある。
それは無能な善意だ。
こうした手合は自分の行動が相手のためになっていると信じて疑わない。さらに、善意で言っているのに聞き入れないのかやあなたのためを思ってやっているんだと主張する。人は、自分の行為が他者の行為よりも、より善意によるものだと解釈する傾向にあるという実験もあるそうだ。しかし、こうした善意の助言をしてくる人のほとんどはその結果に対して責任を負わないし、その事に興味を持っていないのだ。それでも、善意で言ってくれているのがわかっている分、論理的な齟齬を指摘するには憚るし、無碍に断わりづらい。なんともひどい状態だ。その点、明確な悪意はその目的がはっきりとしている分、対策が取りやすかったりする。
究極的にはどんな判断や行動も上手くいくかはわからないのだから、リヴァイ兵長が云っていたように、自分が後悔しない選択をするしかない、もしくは自分の選択を後悔しないためにあとから頑張るかだろう、それが自由というやつだ。ただ、自由に選択し判断し行動した結果は全て自分で引き受けなければならなくなる。そうした自由の重責に耐えきれず、エーリッヒ・フロムが云うように自由から逃走するはめになる。地獄への道は善意で舗装されている、というわけだ。
最近では逆に、一見悪意のある提言は有能に見えるという流れもあるように感じる。ひろゆきさんの論破ブームはそれだろう。確かに、否定的な意見は大事だし論理的な齟齬を正すのは大事だが、どんな主張や行動も完全に論理的であることはできない。間違いを見つけようと思えばいくらでも見つかる。これはディベートが勝ち負けのつく種目であるがゆえに、相手の意見の棄却が自分の意見の採択へと直結することが原因なのだろう。しかし、答えに辿り着こうという、より良い選択へと向かおうという議論は、宮台真司さんがいうように合意の形成を目的としているときにのみ有効なはずだ。
では、ぼくたちは誰かに助言を求められたときにどうすれば良いのか。自分は無能だからとただ黙っていれば良いのか。正直わからないが、自分ならこうしてほしいというのがいくつかある。
1つ目は知っている限りの選択肢を提示することだ。大抵、あとからこうすればよかったという選択肢を僕たちははじめに知らない、知らないのだから選びようがない。さらに、何かの判断を迫られたとき僕らの視野は狭窄する。そこでいろいろな選択肢があれば、少数に固執することも選択に対して後悔することもいくらか軽減できるだろう。
2つ目が選択や判断、実行の際に役立つ思考の道具箱を拡充すること。結果は分からないが、結果はプロセスによって導かれ、どうやればよいプロセスを踏むことができるかは先人の賢い人たちが色々と実験してくれているのだ。個々のテクニックを手渡すのもいいが、そういうときはまとまっているもの、例えば独学大全などをそっと黙って手渡してあげればいいだろう。魚でなく釣り方を教えろというあれのことだ。
そして最後が、情熱や熱意を説くことだ。なんとも昭和でマッチョなニーチェを感じる意見だが、再三いうように論理には限界がある。自分がどれを選択しても結果は誰にも感受し得ないのであれば、最後に大事になってくるのは、それがなんとなくすごいとか、とてつもなく好きだとか、気づいたらやっていたとかいう偏りなのだと思う。論理学や統計学は有用だ。しかし、それらが有用なのは選択肢の棄却であって選択ではない。最後にGOサインを出すのは、直観とか熱意とか忘我とかそんな嘘くさいけど、自分にとことん正直になった結果煮えでたものなのだと思う。社会的意義なんぞあとからいくらでも付けられる。世の中を席巻するサービスのほとんどが初めは許されないような動機で始まっていたりする。それでも彼ら彼女らはやったのだ。
まとめると、多くの選択肢から、道具箱の中のツールで絞り、あとは直観で決める。これを無限に繰り返せばきっと後悔しないため満足行くルートが得られる、なんてほとんど常人離れした曲芸だ。それでもこれらをやっている人がいる、という事実を知っているだけでもなんだか救われる気がする。

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