栄養としての食事とエンタメとしての食事

食事には栄養摂取とエンターテイメントの二側面がある。
おいしいステーキはタンパク質も摂取できるし、食べてて楽しい。
青汁やプロテインを食事といっていいか分からないが、これらはつまらない代わりに、足りていない栄養素を補える。その点、ポテチやカップヌードルは食べてて楽しいが、栄養という観点ではほとんど食べる意味がない。
現代では一般的に、健康的な食事を謳っている商品ほど値段が高い。これは健康という商品には資本主義社会においてそれだけの付加価値がつくためである。だが、昔、例えば平安時代などの食事は逆であった。貴族は栄養価の低い食品を多く食べており、これは食事を娯楽の類として楽しむだけの財力が備わっていたためである。たくさん食べるのが楽しいのは、食べ放題が贅沢だと感じる感覚と近いだろう。それに対して、庶民はひえやあわなどの雑穀に一汁三菜などの質素な食事で、効率的に栄養を摂取していた。庶民は農業などの仕事に従事していたために、それだけ食事に時間をさいたり、大枚をはたいたりできなかったためである。同じような例で、古代ローマでは、一度食した食べ物を鳥の羽をのどの押し込み、吐き出すことで、何度も食事を行うことが豪奢だとされていたそうだ。大学のサークルの飲み会で、トイレで何度も吐いては不死鳥の如く舞い戻り、再び飲みに興じていたあの風景と同じなのだろう。
これは、食事だけでなく料理も同じ様相を呈しているだろう。料理は元来、家事の一つであったが、外食のみならず、総菜や冷凍食品、フードデリバリーなどの恩恵で、趣味という形で娯楽の一つと化しつつある。

では、こうした食べ物を取り囲む環境は未来ではどうなっていくだろうか?
色々と考えることができる。
例えば、全く満腹感を感じないエンタメとしてだけの食事、なんていうものがあるかもしれない。これは浪費の壁を超えるものであろう。
『暇と退屈の倫理学』という本で浪費について次のように書かれていた。

浪費とはなにか?浪費とは、必要を超えて物を受け取ること、吸収することである。必要のないもの、使い切れないものが浪費の前提である。

 浪費は必要を超えた支出であるから、贅沢の条件である。そして贅沢は豊かな生活に欠かせない。

 浪費は満足をもたらす。理由は簡単だ。物を受け取ること、吸収することには限界があるからである。身体的な限界を超えて食物を食べることはできなし、一度にたくさんの服を着ることもできない。つまり、浪費はどこかで限界に達する。そしてストップする。(144-145p)

浪費は贅沢であるが、それと同時に、限界を持っている。食事でいえば、満腹(感)のことだ。しかし、これを感じない、もしくは摂取以上の速度で消化される食事があれば、無限に浪費をすることができる。確か、TENGAのアンケートだったはずだが、日本人が幸福を感じる瞬間はおいしいごはんを食べたときという回答が一番多かった。摂取せずとも、ガムをもっと進化させて、口に含んで食事をして、吐き出すというような食べ物でもいいかもしれない。そうなると、たばこやシーシャのような嗜好品としての食べ物というものが生まれるかもしれない。
他にも、栄養とエンタメの分離というのが考えられる。3Dプリンタの登場により、あらゆる構造をもつものが比較的自在に作れるようになりつつある。食べ物をプリントするというのは既にある発想で、現に実用化されつつある。こうなると、味はステーキだが、栄養としては一日分の野菜を摂取することも可能になる。エンタメとしてステーキだが、栄養として野菜、という構造と装飾の分離、HTMLとCSSのような関係を作ることができる。一応言っておくと、HTMLが栄養でCSSがエンタメである。こうなると、好き嫌いなく食べなさいと子供を𠮟りつける親はいなくなるし、偏食を罵倒する友人もいなくなる。
夢想的には、いつか太陽光を美味しくいただける日が来てくれるといいな。

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