そこらへんのラクガキ

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ひと夏の恋

"ひと夏の恋"をした。 とは言っても、その恋が偶然夏に訪れただけで、側から見ればごく普通の日常で起こりうる恋愛模様なのだと思う。 出会いはいたってシンプルだった。 7月の下旬、大学の講義でたまたま席が隣になった。 その日のおれは、普段よりほんの少しだけ気分が昂っていたのだと思う。その理由はもはや思い出せないが。 隣に座った君に話しかけることは、その講義で習う複雑な公式を覚えるよりも遥かに容易で、その日の浮かれた心緒が、普段の自分からは想像つかない類の行動を引き起こし

    • 機会

      彼女が駅前の道路脇で自転車のチェーンを直している姿を見た瞬間、驚くほど簡単に恋に落ちた。 時折首筋の汗を拭いながら手のひらを真っ黒に汚していく様子に、おれは釘付けだった。 彼女の前を横切る時、声をかけようか本気で迷った。 しかし、人通りの多い道でしゃがみ込む彼女に話しかける勇気も、外れたチェーンを手際良く戻す技術のどちらも持ち合わせていなかったおれは、何も見なかったように、せかせかと早足で通り過ぎた。 静かに肩を落としたおれを他所目に、1人の男性が声をかけた。 「手

      • 誰かのために生きること

        「あんた、いつからそんなに優しい子になったの」 たまの休日に実家に帰ると、母はそう言って揶揄いながらも満面の笑みを見せる。 たしかに自分勝手な性格のおれは、母に対して数えきれないほどの迷惑をかけてきた。 最低な親父にそっくりなおれを、20年間も育ててきた苦労は計り知れないし、少なくともおれは世間一般でいう"良い息子"ではなかった。 ただ大人になるにつれ、自分にとって大切な人を見極めることができるようになった。 おれが幸せにできる人の数には限りがある。 おれはアイド

        • はんぶんこ

          「このアイスさ、2人ではんぶんこしない?」 2つが1つになっているアイスを買う時は、おれはいつもそのような提案をする。 しかし彼女の返答は決まって、 「わたしは1人で食べられるから」 そう言っておれの分も合わせて2つ、買い物カゴにアイスを放り込む。 家の冷凍庫には1つだけ残ったアイスがいくつも並んでいることを、彼女も知ってはいるのだが。 そんなことは気にも留めず、彼女はいつものようにアイスをカゴに入れる。 「家にまだ半分残ってるよ」 「わかってるよ。でもこっち

          遅くなってごめんね

          「遅くなってごめんね」 たった5分、10分遅れた程度ではもはや動じることはない。君の遅刻癖はどう頑張っても治らないと、遥か昔に諦めたはずだから、おれはいつも笑顔でこう返す。 「今日はいつもより早いね」 "破天荒"という言葉がピッタリな君の人生には、おれの退屈な毎日は似合わないのかもしれない。 ただ、君と過ごした時間は信じられないほど濃密で華やかであったことは間違いない。 だからこそ、大事な話があると呼び出されたあの日、時間ピッタリにやって来た君に、初めて少し腹が立っ

          遅くなってごめんね

          些細な転機

          「次は東京〜東京〜」 このアナウンスが鳴ると同時に、肩から下げたトートバッグから片手サイズの本を取り出し、おおよそ3分の2を読み進めたであろうページを無造作に開く。 扉が開くと、緩やかな歩調で乗客が4.5人車内へと乗り込む。 1番最後に並んだ女性は、決まっておれの目の前、扉のすぐ側にもたれかかり、その小さな手で少し大きく見える文庫本をペラペラとめくる。 読書をするのは何年ぶりか、もはや思い出せない程昔の記憶だが、おれは彼女が、おそらく美しいであろうその小説に記された文

          二度目の初めて

          晴れた日の空を見上げると、思わず吸い込まれそうな感覚に陥り、慌てて視線を地面に向ける。太陽の光に照らされた水たまりの上では、小さな妖精が軽快なダンスを披露しているようだ。額ににじんだ汗をぬぐい、歩みを進めた。電車に乗り、自宅に到着する。この家で、おれは一人で生活している。といっても独り身ではなく、結婚して三年になる妻がいる。しかし、一緒に暮らしていたのはほんの数か月間だけだ。彼女の病気が発覚したのは、結婚式を終えた直後のことだった。それからというもの、彼女は病院で治療に専念し

          小さな代償

          午後七時一四分、たいていこの時刻におれは電車に乗り込む。扉が開き、後ろに並んだ乗客に押し込まれる形で車内の奥まで進む。ここから約三十分間は、何も考えずに時間が過ぎるのをひたすら待つのみだ。電車を降りると、家族の待つ家までまっすぐ帰る。ここまでの行動をおれは毎日繰り返す。 午後七時五十分、人混みを抜けて駅の外に出ると、自分の視界に少し違和感を覚えた。その違和感の正体は視界の端にうつる一人の男だと気がついた。駅に人がいるのは当たり前だが、その男はどうもおれのことをじっと見ている

          家族を守る覚悟

          無口な親父が死ぬ前に遺した言葉 「母ちゃん、泣かせんなよ」 10歳のおれには、それがどれだけ重い言葉なのか理解できなかった。 子供ながらに努力はした。母さんの教えに逆らったことはないし、いわゆる"親孝行"とよばれることはしてきたつもりだ。 親父は母さんのことが本当に大切だったのだろう。 親父がおれに遺した言葉は、おれに人生の目標を与えてくれた。 25歳の現在、おれには一生かけて守りたい人がいる。 親父が母さんを大事にしていたように、おれも彼女を世界一幸せな女性に

          大嫌いな涙

          泣き虫は嫌いだ。涙を流せば解決することなんてこの世には存在しないと思っていた。 ただ、彼女が流す涙はどうしても嫌いになれなかった。 彼女は、そっけない人だった。冷淡というわけではなく、どこか他人に関心がないような、自分をしっかり持っている女性だった。 そんな彼女が涙を流す時は、決まっておれと向かい合う時だった。 俺の単身赴任が決まった日の夜。俺から一切目を逸らさず、自分が泣いてしまっていることに気づいていないようだった。 「寂しい?泣くなんて珍しいね」 「ごめん。

          匂い

          懐かしい匂いがした。 8月の太陽に照らされて乾ききった道路に目をやると、 昨日降った雨が嘘だったかのように思えた。 10mほど先の信号が赤に変わろうとしているのを見て、日陰で立ち止まった。 同じことを考えたのだろうか、私の隣では若い女性がハンカチで首元をあおいでいた。 匂いはその時の記憶をはっきりと思い出させる。 その女性の横顔は、何度も忘れようとした彼女のそれとは全く違っていたが、私の頭の中では彼女との記憶が次々と想い起こされていった。 笑った時に口元を隠す仕草

          "ついさっき"

          「ついさっき連絡があったんだけど、カコちゃん、結婚するらしいよ」 「"ついさっき"ねぇ‥」 「お前も結婚式出る?俺連絡しとくよ」 「出るわけねーだろ。元カノの結婚式なんて」 カコとは4年前のクリスマスに会ったきりだ。その日は俺にとっても、カコにとっても最悪な日になったわけだが。 その日のことは鮮明に覚えている。 ーーー 俺の浮気がバレ、アパートの部屋では気まずい空気だけが流れていた。 うつむく彼女を目の前に必死に言い訳を考えていたおれは、つくづく馬鹿な男だとウンザ

          嫁が死んだ日にタバコを吸った

          大好きだった嫁が死んだ。 俺はまず、あいつが大嫌いだったタバコを吸った。 酒もたらふく飲んで、好きなものを好きなだけ買った。 ーーー 「結婚するならタバコはやめてね。あとギャンブルも」 プロポーズをした次の日、そのようなことを言われた。 そんなことできるはずがないと思っていたが、案外すんなりとやめられた。 昔の俺は頑固で、人の言うことなんて素直に聞いた試しがなかった。 親や友達、付き合っていた彼女に何度も何度も、 「ギャンブルはもうやめな」 「タバコは身体に良くな

          嫁が死んだ日にタバコを吸った

          私が”好き”な私は、あなたが好きな私

          私は小さい頃、絵本を読む時間が好きだった。絵本の中では私の好きな私が自由に走り回れるから。 小学校に上がる頃には自分で自分の好きな世界を作ってみたいと思い始めていた。 16歳の夏、私は小説を書き始めた。 誰かに読んで欲しいわけでも認めて欲しいわけでもなかった。だけど周りの子は私の”好き”に寛容ではなかった。 私は小説を書くことをやめた。好きなことをしている自分が好きではなくなったからだ。 「ナオちゃん、新しいお話書かないの?」 従兄弟のスミちゃんは私の”好き”を唯一肯

          私が”好き”な私は、あなたが好きな私