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小さな代償

午後七時一四分、たいていこの時刻におれは電車に乗り込む。扉が開き、後ろに並んだ乗客に押し込まれる形で車内の奥まで進む。ここから約三十分間は、何も考えずに時間が過ぎるのをひたすら待つのみだ。電車を降りると、家族の待つ家までまっすぐ帰る。ここまでの行動をおれは毎日繰り返す。


午後七時五十分、人混みを抜けて駅の外に出ると、自分の視界に少し違和感を覚えた。その違和感の正体は視界の端にうつる一人の男だと気がついた。駅に人がいるのは当たり前だが、その男はどうもおれのことをじっと見ているふうであった。そういう場面に遭遇した時は、人間みな共通して恐怖や嫌悪感をおぼえるものだ。しかしおれには、その類の感情が生まれることはなかった。その男はゆっくりとこちらに近づいてきた。

「もしかして、山川か?」

その男はいきなりそう言って嬉しそうに笑った。

「やっぱりそうだよな。元気にしていたか?おれだよ、高校の時同じ部活だった城田。」

城田という男のことはよく覚えている。おれが所属していたバレーボール部の主将だった男だ。誰に対しても気さくに振る舞い、彼を慕う者は少なくなかった。彼であれば、初めに恐怖を感じなかった理由もよくわかる。やはりこの男には他の人にはない才能が備わっているのであろう。

「お前、この辺に住んでいるのか?せっかく再会したことだし、久しぶりに酒でも飲もう。」

この男は人と打ち解けるのが本当に早い。たいていの場合、数年ぶりに会う人間と話をするときは多少遠慮がちになるものだ。そういった雰囲気を彼は微塵も感じさせない。そしてこちらも決して悪い気はしないのだ。特に断る理由もなかったため、おれは彼の提案に応じた。

「今日は仕事の打ち合わせでたまたまこっちに来ていたんだ。本当に久しぶりだな、お前同窓会には全く来ないから。」

おれは同窓会には一度も参加していない。かつての友人たちに会い、思い出話にふけるのも楽しいのかもしれない。しかしどうにも、参加する気になれなかった。城田には適当な理由を話しておいたが、彼もそれ以上深くは聞いてこなかった。

「しかし、雰囲気が少し変わったようだな。表情に活気がないように見えるぞ。」

彼はそう言って、心配しているようだった。たしかに以前と比べて、感情に揺さぶられることが少なくなった。しかしそれほど悪い傾向ではないし、年を取ったせいだと、そう思い込んでいる。

「ここの店なんかいいんじゃないか。」

そう言って彼の指さす方向にある店を見た。正直おれは、酒の味の違いなんて分からない。おれは彼の意見に同意した。店に入ると、元気で愛想の良い店員が出迎え、それに従い奥の席についた。そこからはしばらく他愛のない会話が続いた。一通りお互いのことを知ったところで彼が言った。

「そういえば、さっきの店員の目、見たか?」

そう言われて、その店員の目を見ると、彼の目が綺麗な緑色であることに気がつく。

「山川も知っているだろう。緑色の目をした人間がどういうことなのか。」

そのことについてはおれもよく知っている。この国の科学技術は驚くほど進歩し、たいていの問題は機械で解決できるようになった。国中のいたるところで、いわゆるロボットが人間と共生している。ロボットは食事を必要としないし、睡眠も必要ない。そんな中で、病気を患った人に対して、身体をロボットと一体化させる方法が開発された。見た目は人間そのもので、それを見分けるのは容易ではないらしい。ただし、人間との区別が全くつかなくなってしまうと、それはまた問題があるということで、そういう人間の目を、緑色にする決まりができた次第だ。

「いや、でも珍しいな。たいていのやつはコンタクトレンズなんかで色をごまかして、自分の目の色を隠したりするものだが。」

城田が言うように、機械化された自分をさらけ出すのは勇気がいることだ。

「それにしても、便利な世の中になったものだな。あの技術のおかげで、病気で苦しむ人が格段に減っているわけだ。だが、やはりおれは一生人間のままでいたいと思う。」

城田はそう言って笑った。やはりそういうものなのだろうか。食事や睡眠が必要ないというのは便利だが、自分は人間じゃないのだと、自らの身体がそう証明しているということだ。人間として生まれたからには人間として死にたい。そう考えるのが普通なのかもしれない。その後彼と別れ、家路についた。


 午後十時十五分、家に着き扉を開ける。玄関先まで妻が迎えに来る。

「おかえりなさい。少し遅かったのね。」

彼女はそう言っておれのカバンを受け取った。おれは彼女に、友人と会っていたことを伝えた。

「そう、なんだかいつもより顔色がいいわ。楽しかったみたいね。」

妻は、おれの感情を読み取ることが得意なようだ。そう言われることでおれは、自分が楽しんでいたことに、初めて気がつく。


 午後十一時二三分、二人で寝室に向かい、妻がベッドに入るのを見届ける。彼女にそっと近づき、顔を覗き込む。月明かりに照らされた二つの綺麗な黒色の目に、おれは吸い込まれそうになった。彼女の目の奥では、かすかな緑色の光が輝いている。おれは微笑みかけると同時に目をそらし、寝室を後にした。

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