些細な転機

「次は東京〜東京〜」

このアナウンスが鳴ると同時に、肩から下げたトートバッグから片手サイズの本を取り出し、おおよそ3分の2を読み進めたであろうページを無造作に開く。

扉が開くと、緩やかな歩調で乗客が4.5人車内へと乗り込む。

1番最後に並んだ女性は、決まっておれの目の前、扉のすぐ側にもたれかかり、その小さな手で少し大きく見える文庫本をペラペラとめくる。

読書をするのは何年ぶりか、もはや思い出せない程昔の記憶だが、おれは彼女が、おそらく美しいであろうその小説に記された文章を読む姿が、たまらなく好きだった。

自らの習慣、プライド、信念、その他諸々の、ブレないと信じていたはずのモノ全てがひっくり返ってしまう程の、眩い佇まいだった。

学生でいられる時間はあと僅か。

おれはこの一瞬一瞬を思い出し、決して気分が良いとは言えない車内での記憶を忘れることはないのだろう。

人生において転機となる瞬間は、それほど意味を持つものではないし、些細な出来事なのかもしれない。

ただその経験は、ふと思い出した時にクスッと笑えるような、明るく穏やかな記憶になるのではないかと、おれはそう信じている。

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