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二度目の初めて

晴れた日の空を見上げると、思わず吸い込まれそうな感覚に陥り、慌てて視線を地面に向ける。太陽の光に照らされた水たまりの上では、小さな妖精が軽快なダンスを披露しているようだ。額ににじんだ汗をぬぐい、歩みを進めた。電車に乗り、自宅に到着する。この家で、おれは一人で生活している。といっても独り身ではなく、結婚して三年になる妻がいる。しかし、一緒に暮らしていたのはほんの数か月間だけだ。彼女の病気が発覚したのは、結婚式を終えた直後のことだった。それからというもの、彼女は病院で治療に専念し、私はこうして毎日病院と自宅を往復する生活が続いている。そして今日、とうとう彼女の余命が宣告された。あと半年の命だそうだ。

「ごめんね。私なんかと結婚させちゃって。」

彼女はそう言って涙を流していた。かける言葉が見つからなかった。思い返せば、妻は常に笑顔が絶えない人だった。口下手で、素直に自分の気持ちを伝えられないおれは、そんな彼女の優しさに甘えていたのだと気づかされた。自責の念に駆られ、眠れない夜が続いた。

  ある日の夕方、仕事を終えいつものように病院に向かう途中、ふとズボンのポケットに手を入れると、何かが指先に触れた。感じたことのない感触に一瞬顔をしかめたが、ゆっくり取り出してみると、それは女性ものの髪飾りだった。いつのまにこんなところに入り込んでいたのかと不思議に思ったが、家の中で拾ったものをそのままポケットに入れたのだろうと深く考えることはしなかった。妻がいる病室に着き、彼女の容体を気遣いながら、他愛もない会話をした。数十分後に、また明日来ることを伝えて席を立った。病室を出ようとしたとき、ポケットの中の髪飾りが気になったので、妻に尋ねてみた。

「懐かしいわね、それ。どこで見つけたのよ。」

彼女はそう言って笑った。

「その髪飾り、あなたが初めて私にくれたプレゼントよ。学生の頃だったかしら。」

その髪飾りを手に取り、嬉しそうに眺めている様子を見て、おれも自然と笑顔になった。

  数日後、忘れかけていた頃にまた同じようなことが起きた。病院へ向かう道中、ポケットの中に何かが入っている感覚がしたので、それを取り出した。それは腕時計だった。今回は、おれにも見覚えがあるものだった。いつだったかのクリスマスに、妻にプレゼントしたものだ。この不思議な現象を妻に話そうか迷ったが、余計な心配をかけたくないと思い、自分だけの秘密にしようと心に決めた。彼女には思い出の品を持ってきたとだけ伝え、それを渡すようにした。

  そんなことが何度か続いた。妻はおれが持ってくるものを、楽しみに待つようになった。そのたびにおれは、当時の自分が伝えられなかった想いをきちんと言葉にして伝えた。

「へえ。あの時、そんな風に思ってプレゼントしてくれてたんだ。嬉しいな。」

彼女は照れながらも、喜んでいるようだった。

こうして不思議な現象に慣れてきたころおれは、あることに気がついた。ポケットから出てくるものは、時系列に沿って現れている。初めに出てきた髪飾りは、おれが初めて渡したプレゼントで、腕時計はその年のクリスマスにあげたものだ。それに続く品々も順を追って出現している。おれは、二人が積み上げてきた思い出を振り返るこの時間が、とても好きだった。

  ある日の夕方、ポケットに手を入れるといつものように何かが入っている感覚がした。もはや驚くことはなく、それを取り出した。結婚指輪だった。おれはなぜか寒気がした。気づいたときには、指輪を握りしめて走り出していた。息を切らしながら病室のドアを開けると、意識のない状態の妻の姿があった。スマホにうつる大量の不在着信の文字に気づくのは、ずっと後のことだった。彼女の元へ駆け寄り優しく声をかけたが、返事が返ってくることはなかった。その数時間後に、妻は亡くなった。おれの手に残った指輪は、彼女にあげた最後のプレゼントだった。

  数日後、妻の母親が尋ねてきた。

「最後まであの子のそばにいてくれて、本当にありがとう。」

おれは深く頭を下げた。

「亡くなる前、あの子がこんなことを言っていたの。」



―数週間前―

夫は、無口でとても不器用な性格。でも最近、彼は自分の気持ちを素直に伝えるようになった。初めは、私を元気づけようと無理をしているのだと思っていた。しかし、彼の言葉や表情に嘘はなかった。母は、私に元気が戻っていく様子に気がついていた。

「あなた、最近は前みたいによく笑うようになったわね。」

「そうそう、この間彼がね、とっても嬉しいことを言ってくれたの。ほら、あの人普段は口数があまり多くないじゃない?」

「そうね、彼なりに元気づけようとしてくれているのね。優しい方ね。」

「あ、それと母さん。これから言うことは彼には内緒ね。」

最近夫は病室に来るとき、二人の思い出の品を持ってきてくれるようになった。私は何度か彼に、それをどこで見つけたの?と聞いたことがある。しかし、その質問に対する彼の答えが嘘だと、私にはすぐに分かった。

「彼ね、嘘をつくときは必ず左耳を触るの。本当に、わかりやすい。」

その時のことを思い出すと、自然と笑顔になる。嘘をつかれたはずなのに、とても幸せな気持ちになっていた。今まで彼が嘘をつくときは決まって、私のためだったからだ。

ある時はこんなことを言っていた。

「昨日タンスの奥からこんなもの見つけてさ…」

そう言いながら彼は、左耳を触っていた。私はそれを笑顔で聞いている。この半年間は間違いなく、私の人生で最も充実した日々だった。本気でそう思わせてくれた彼には感謝しきれない。

  最近は体調があまりすぐれない。母も心配して、病室で寝泊まりするようになった。彼は仕事の都合で、夕方以降しか来られないけれど、毎日欠かさずに会いに来てくれた。私には生きる理由があった。

「母さん、あの人は誰かを幸せにできる人なの。だから私がいなくなっても、前を向いて生きていってほしいの。」

「何を言っているの。病気なんかに負けちゃだめ。あなたはきっと元気になる。」

「そうじゃないの。弱気になってなんかない。ただ、彼には私よりももっと、幸せになってほしい。こんな私を、世界一幸せな女の子にしてくれたんだから。」

私は、精一杯の笑顔を見せた。



義母が帰った後、おれはテーブルの上に飾ってある妻の写真を見つめていた。病室で撮った写真だ。おれはなぜか、この写真がとても好きだった。涙でぼやける目をこすりながら、写真に写る妻を見ると、心から幸せそうに笑っている。この半年間、いくつものプレゼントとともにおれが伝えてきた思いは、今まで口にすることができなかった、彼女が欲しかったであろう、愛の告白だったことにようやく気がついた。

おれは写真の前に指輪をそっと置いた。

「あなたを心から愛しています。僕と、結婚してください。」

「ちゃんと言えるじゃない」

 写真の中の彼女は、そう言って笑っているようだった。

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