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匂い

懐かしい匂いがした。

8月の太陽に照らされて乾ききった道路に目をやると、
昨日降った雨が嘘だったかのように思えた。

10mほど先の信号が赤に変わろうとしているのを見て、日陰で立ち止まった。

同じことを考えたのだろうか、私の隣では若い女性がハンカチで首元をあおいでいた。

匂いはその時の記憶をはっきりと思い出させる。

その女性の横顔は、何度も忘れようとした彼女のそれとは全く違っていたが、私の頭の中では彼女との記憶が次々と想い起こされていった。

笑った時に口元を隠す仕草、褒められると一瞬にして赤くなる頬、朝が苦手で機嫌が悪くなるところ、全てが愛しかった。

忘れられないと同時に、どんなに思い出そうとしてもかなわない。匂いの記憶は、どんなものにも勝る矛盾を併せ持っている。

そして、偶然それに出会えたとしても、この感動を誰に伝えたら良いか分かるはずもなく、もどかしさだけが残る。

信号が青に変わり、女性はスタスタと歩き始めた。

おれはその後ろ姿を見つめながら、だらしなく垂れ下がった瞼をなんとか持ち上げた。

信号が点滅に変わるとともに、見事なまでに現実に引き戻された。おれは小走りで横断歩道を渡りきり、二度と振り返ることはなかった。

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