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236.私はね、運なんていうものは一切信用しないんだ!

1.発明王エジソン68歳からの出発

 

1941年12月、ウエスト・オレンジにあったエジソンの研究所が燃えてしまった。エジソンが68歳の誕生日を迎える2カ月前のこと。

この研究所は彼の代表的な発明でもある蓄音機や電灯、活動写真、蓄電池の製造工場でもあり、化学薬品の多い実験場だったため火事の勢いは凄まじく、一瞬の内にすべてを失ってしまいました。

エジソンは集まってきた新聞記者達を前にして、「自分はまだ67歳でしかない。明日から早速、ゼロからやり直す覚悟だ。
そうすれば、今よりもっと大きな立派な研究所ができる。
意気消沈しているヒマはない」と語りました。

しかし、現実はエジソンの考えたように甘くはありませんでした。

それは、再建にかかる費用があまりにも膨大な額だったのに対して、当時の研究所はコンクリート製の工場で、火事に強いと思われていたが、火災保険の支給額が微々たるものであったからです。

また、当時のエジソンはかなり儲けていたはずなのに、少しでも収入があれば、ためらうことなく次の実験費に注ぎ込んでしまい、まったくの文無しに近かったのです。

それどころか、ほとんどの支払が出来ず、借金額も膨大に膨れ上がり、裁判所や警察までが取り立てに来ていました。

また、資材、材料屋のほとんども債権者として、日々、取り立てにきているといった始末。当然、自らの研究所で働いている従業員への給与だってまともに支払ができない状況だったのです。

トーマス・エジソン(1922年頃)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2.『1%の才能と99%の創造力と野心である』

エジソンは82歳の誕生日に『天才とは1%のひらめき(インスビレーション)と99%の努力(パースピレーション)のたまもの』といいました。

とても有名な言葉ですね。

これは有名な格言ですが、もうひとつの言葉も残していました。

それは、ビジネスで成功する秘訣に関して『1%の才能と99%の創造力と野心である』というものです。

当時から「ひらめきだけでは天才となれず努力が肝心」といわれていましたが、エジソンはこの『ひらめき』は、心の中の声、己の内在された意識、つまり、すべて自分の中に答えがあるという考え方でした。

そして、「ただ努力しているだけではだめだ」ともいっています。

エジソンほど失敗に失敗を重ねてきた人もいませんが、エジソンは努力という積み重ねがある者は、失敗してもそれによって心理的な打撃を受けることが少ないといっています。

自信は積み重ねの努力の習慣に支えられ、自信のある人は、少しぐらいうまくいかなくとも、それだけに気をとられたりしないということです。
そして、可能性がわずかでもあるのなら決して諦めず、うまくいくよう努力するというのが、本来の楽観主義といえるのかもしれませんね。

つまり、戦わずして、決して諦めたりしない。
それが「1%の才能と99%の創造力と野心である」という言葉になっているのです。

エジソンの最大の武器は、他人に負けない「思い込み(創造力)の強さ」と「決して失敗を恐れず、失敗にへこたれない忍耐力」だともいいます。

彼は運についてこんなことを話していました。

「世の中では、成功した人は運がよく、失敗した人は運が悪いなどと、成否を運のせいにしているが、わたしは運などというものは一切信用しない」と言い切っている。

さらに、もし運があるとしたら、「自分ほど世界で不運な人間はいない…」とも述べていました。

これは20世紀最大の発明家の名声をほしいままにしたエジソンの本当の言葉です。
彼は13歳で耳が不自由になり、青年時代は事故を引き起こし逃亡生活を送り、高等教育を受けていないため、大学や学会からも見下されっぱなし、さらに事業は失敗の連続、私生活は離婚の繰り返しと、耳が聞こえないだけでなく、人生の大半で、これほどハンディを背負った人物も少ないかもしれません。

3.母の記憶は紙の祝福

 
エジソンを支え続けてきたものは一体何だったのでしょう?
それに該当する、こんなコメントが残されていました。

教師の経験もあった母親ナンシー

 「母親の大切さを自分は幼い頃に発見した。
小学校の先生から無能呼ばわりされた時、自分を最も強く弁護してくれたのは母親だった。
その期待に応えるために努力を重ねたといってもよい。
母から与えられた初期の教育の効果は終生大切に思った。
人生の節目節目で体験した危機的状況に際し、母ほど自分を認め、信じてくれた存在はない。
それなくしては決して発明家としてやっていけなかった気がする。
母の記憶は神の祝福に等しい」と。

トーマス・エジソン(1922年頃)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

彼の人生は常にゼロからのスタート。
人生最大の危機、火事の知らせを聞いて、600万ドルの小切手を届けにきた男がいました。

その男の名はフオード。

彼は、何も聞かずその場で「是非とも役に立ててほしい」エジソンはその友情に感謝し、不眠不休の作業の中で、わずか1カ月後に再建第1号の蓄音機を製造できるまで復旧しました。

エジソンのもうひとつの特徴は、人財に恵まれていたことでした。
フオードとエジソンは大人と子供ほどの年齢差がありましたが、フオードは、エジソンのことを生涯の友であり、ヒーローだと述べています。

フォードは13歳で母親を失い、アルコール依存症の父親を手助けしながら、6人の弟や妹の世話をし、苦難の少年時代を過ごす。

彼もまた、母親に励まされた記憶を頼りに、16歳で家出し、各地を転々としていたのです。

そして、エジソンの会社に入り、照明主任技師として働きながら、夜は自宅でガソリンの自動車を研究していました。

やがて、エジソンから自動車用のエンジンの点火プラグなどの電気系統の技術を学び、フオードは独立するのです。

彼が36歳の頃。実験の失敗を繰り返しながらも、エジソンの精神で1903年、40歳の時にあの有名な「フオード自動車」を誕生させました。そして1908年、世に出たのです。

フオードはエジソンに恩返ししたのでした。

エジソンの返済にはかなり時間がかかったが、きちんと利息をつけて返済しています。
まさに友情のなせる業でしょう。

妻、ミナ(1906年)

エジソンは後年、自分と似た境遇を持つ野口英世に英文でこんなメッセージを残しました。

 「成功しない人がいたとしたら、それは考えることと、努力することと、この二つをやらないからではないだろうか」

coucouです。みなさん、ごきげんよう!

エジソンの映画スタジオ、ブラック・マリア(1893年)



「成功」と「失敗」の境目って「幸せ」と「不幸」に似ていますね。

それは、人が不幸だといっても、自分は不幸だと思っていない。
人があなたは幸せね、といっても自分では幸せと感じていない。

これと同じように、人が失敗だと見ていても、自分では失敗だと思わない。

人があなたのことを成功したのだと持て囃したとしても、自分では成功と感じていない。

エジソんは、「1パーセントのインスピレーションと99パーセントの努力」という言葉を残していますが、99パーセントの努力とは、99パーセントの失敗という意味にも捉えることができます。

しかし、エジソンは99パーセントの失敗のことを「こうすると失敗するということがわかった」、だから失敗のほとんどは成功なのだ、とも語っていました。

そう、世界には「成功」も「失敗」もなく、「幸せ」も「不幸」などもない、あるのは自分自身の心の問題だ、と言っているように思います。

ここまでのおつきあい、ありがとうございます。


また、明日ね!





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