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221.愛はいつも私から逃げていく。でも、いいえ、私は決して何も後悔しないわ!

1.私は何も後悔しない

 

シャンソンというと、わたしたちはイブモンタンの「枯れ葉」やアドモの「雪が降る」などを思い浮かべる。シャンソンという言葉は、フランス語で「歌」を現す言葉で特定のリズムや音楽のことをいうのではなく、一般的なポップス(歌謡曲)です。

しかし、シャンソンの代名詞と言える作品は、エディット・ピアフの「愛の讃歌」かもしれません。

レーベル:Wagram発売国:France:LPレコード:輸入盤より

エディット・ピアフがこの世に生まれたのは、1915年12月19日。クリスマスの前にパリの下町ベルゲイルの路上で生まれたといわれています。

父バットは大道芸人、母アニタは場末の歌手。2人は貧しくその日暮らしのストリート。ちょうど母親が産気づいたので父バットは病院に向かうが、途中の酒屋に入り込んで酔っ払ってしまう。母親はそれを待ちきれず、アパートの廊下で警官のマントの上でピアフを出産しました。

その2ヵ月後、当時17歳であったアニタは夫と娘を捨てて逃げ出してしまいました。そして残された父は、1917年にピアフを母方の売春宿を営んでいた祖父母に預けることにしました。1916年、父エディットはフランス軍に入隊してしまいます。たったひとり残されたピアフは、この頃、酷い話ですが祖母から「アルコールは〈虫〉を殺すから身体にいい」と赤ブドウ酒をミルク代わりに飲まされていたといいます。

そのためなのかピアフは、3歳から7歳にかけて一時失明してしまいました。この時期の娼婦や売春宿への訪問者と関わり、ピアフの人格と人生観に大きな影響を与えたことはいうまでもありません。

幼き頃のピアフ

 「わたしには母がたくさんいました。いつも新しい母親です。もちろん、みな父の情婦たちです。でも彼女達はみなわたしにやさしくしてくれたものです」

 ピアフの目は、1921年8月21日に聖テレーズ・ド・リシューにお祈りし奇跡的に見えるようになりました。この奇蹟を生涯にわたって信じ、テレーズを信仰するようになったのです。

1922年、父と再会。2人で旅回わりの生活を始める。このとき、厳しい冬に父が病気になつて倒れてしまうのです。一銭もない生活の中で、ピアフの唯一知っている歌「ラ・マルセイエーズ」を道端で歌い、お金をたくさん集めました。そのとき、ピアフは自分の声を感じ、発見し、ひとりで生きようと決心するのです。
わずか15歳のとき、父の元を離れ、パリ通りで歌うのです。今でいうストリート・チルドレンのような生活だったのでしょう。17歳で娘マルセルが生まれました。しかし、2歳のとき、小児性骨髄炎で死んでしまうのです。

 

「それまでの私は世の中のどん底しか知りませんでした。」

「愛はいつも私から逃げていきます」

2.愛はいつも私から逃げていきます

 

1935年、いつものようにパリ通りで歌うピアフ。そのとき、彼女の歌声に耳をとめた紳士、ナイトクラブのオーナー、ルイ・ルプレーに声をかけられる。そして、そこで歌うことになったのです。
ピアフの身長はも142センチしかないため、「小さなスズメ」(LaMomepiat)、ラ・モーム・ピアフという名前でデビューすることになりました。最初のレコードはこの年に録音されました。

エディット・ピアフ 「小さなすずめ」
Edith Paif "The Little Sparrow"

1957年にエディット・ピアフがバラ十字会本部に訪問したとき。他の会員に囲まれて。

「わたしが歌ったのは、ほかに生きていく糧をうる手段がなかったからです。でも、もう一つ理由があります。歌っていると、実に幸せな気持ちになれるからです」

 

しかし、その後オーナーのルイ・リプレーが何者かに殺害されてしまい、ピアフはその共犯者であるという嫌疑をかけられスキャンダルに巻き込まれてしまう(無罪とされた)。

1937年、シャンソン界の陰の実力者と呼ばれるミッティ・ゴルダンの経営するABCホールで「エディット・ピアフ」の名前で出演し、大成功を納めました。

1940年、ジャン・コクトー (詩人・劇作家・小説家・画家)がピアフのために脚本を執筆。この頃、俳優のモーリス・シュバリエや詩人のジャック・ポーガットなどの有名人と次々に出会い始める。
その出会いがきっかけとなり、ピアフは自らの歌の歌詞を書くようになったのです。(代表作の「バラ色の人生」はグラミー賞の名誉賞受賞)

イブ・モンタンとピアフ

1944年、イブ・モンタンと出会う。ピアフは彼の才能に惚れ込み、カウボーイの歌を愛の歌に変え大成功させました。さらに、シャルル・アズナブールのデビューやジルベール・ベユーなどは、ピアフに才能を見い出された歌手でした。

この頃がピアフにとって人生の最高の時だったのかもしれません。

3.人生の最高の時

 

1945年、麻薬常習の母親がモルヒネの量を間違えて注射し、ショック死する。当時、同棲していた男は恐怖のあまり、死体を川に投げ捨ててしまいました。ピアフは決して自分を捨てた母を許してはいなかったが、「もし、あんなふうに生きてこなかったら、あたしはピアフにはなれなかったもの」という。

マルセル・セルダンとピアフ

1946年、ピアフの初めてのアメリカ公演。この頃、プロボクサーのマルセル・セルダンと出会う(ピアフ30歳)。

「当時、わたしは人生は無意味だと思っていました。男たちは、みんな野獣と同じだと考えていました。できるだけ早く死んでしまいたい、でも死ぬまでは、いい加減に過ごし、酒を飲み、心ゆくまで逸楽にふけるのが一番賢い生き方だとおもっていたのです。」

ある日、マルセルはピアフにこんな言葉をいいます。

「エディット、君はぼくなんかよりずうっと素晴らしい仕事をしているんだね。あの人たちに愛と幸せをあげるのが君の仕事なんだから」

ピアフはこの言葉に涙を流した。「わたしがみんなよりもすばらしいなんて!」「もちろん、わたしがそれに価するような人間だなんて、これっぽっちも思っていません…」

ピアフが人生の中で初めて人を信じた瞬間だったのかもしれない。

しかし…。1946年、残酷な報せが届く。パリ・ニューヨーク間で飛行機が墜落し、その中にマルセル・セルダンが乗っていた。それは、セルダンが公演中のピアフに会うために乗った飛行機だった。

「どんな表現をつかっても、あの時の苦しみを言いあらわすことはできません。愛はいつも私から逃げていきます…」

 

その後、ピアフは精神錯乱におちいり、事故と病気、薬と麻薬の世界に入り、自己破産します。

※1951年から1963年までのエディット・ピアフは、自動車事故4回、自殺未遂1回、麻薬中毒療法4回、化学療法1回、肝臓病昏睡3回、呼吸器の発作1回、アル中発作2回、手術7回、気管支肺炎2回、肺水腫1回を経験し、1963年10月11日、ピアフは癌で死去する。

4.愛の賛歌

 

当時、セルダンには妻子がいました。彼の死後、ピアフは生活に困っていた彼の妻と子の世話をするようになるのです。

このセルダンとの日々で生まれたのが、あの名曲「愛の讃歌」だったといいます。本来は他の人に歌わせるための別れの曲だったが、セルダンの突然の死で、ピアフが急遽自ら歌うことを決心したという。

1962年2月。最後の人、テオと出会います。すべてを諦め、すべてに絶望し、歌を歌うことすらできなくなってしまった時期でした。ピアフ47歳、テオ27歳。今でこそめずらしくはありませんが、当時は2人の年齢差だけでもこれだけでスキャンダルでした。ピアフは、最期の瞬間が訪れたときを予感していました。

しかし、テオの家族もあたたかく迎え入れてくれて、結婚することを決意します。そして、生まれて初めて、父や母や妹たち、未来の夫に囲まれた日々を送るのです。

ピアフは不安と病の中で、ギリシャ正教会で式を上げた。

『この瞬間、わたしは将来に対して不安を抱くのはやめました。たとえ、わたしの身にどんなことがふりかかろうと。私は歯をくいしばりながら、ひとり心のうちにこう口ずさんでいました。

 

『何がおきようと くよくよしない

 何がおきようと びくともしない

 私には終わりがわからない…』

 

※1962年9月27日、テオを歌手でビューさせ、1963年10月11日、47歳でピアフはこの世を去った。テオはピアフの死後、彼女の負債を何年もかけて返済し、その7年後、自動車自殺を遂げる。

エディット・ピアフ 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より


5.私の恐ろしい人生

 

「私はおそろしい人生をおくってきました。それは事実です。でも素晴らしい人生でもありました」

「幸福な日もありました。そうじゃあない日もありました。むろんその方がずっと多かったです。そして、この先、私が自分のことを話し終るまでに、また、どんなことがふりかかってくるかもしれたものではありません。それでも私はいつの日か、天に召されてからも、永遠にこう言い続けるに違いないのです。ちょうど、私の歌の中の歌詞(ことば)のように。
(本当の「愛の賛歌」の歌詞内容)

 

《いいえ、私は何も後悔しない》

 

 『 青空だって私たちの上へ落ちて来るかもしれない

 地球だって ひっくり返るかも知れない

 でも大した事じゃあない あなたが愛してくれれば

 世の中のことは、あなたが愛してくれれば

 世の中のことはどうでもいい

 恋が私の毎朝を満たしたくれれば

 

 私の体があなたの手の下でふるえる時には

 重大な問題なんぞ どうだっていい

 あなたが愛してくれるんだから

 世界の涯までも行きます

 金髪にも染めもします

 あなたがそう言うなら

 お月様をとりにだって行きます

 宝物を盗みにだって行きます

 あなたが欲しいと言うなら

 自分の国を見捨ててもいい

 友達を見捨ててもいい

 あなたがそうしてほしければ

 何だってしてのけます

 あなたにそう言われれば

 

 もしもいつか 人生があなたをうばっても

 あなたが死んでも あなたが遠くに行っても

 あなたが愛してくれさえすれば平気

 だって私も死ぬのだから

 あたし達は永遠の中で生き

 広々とした青い空の中で

 問題なんぞない空の中で

 恋人よ 愛し合うだから

 ………

 神様が愛し合う二人を又結びつけてくださるでしょう』

 

         「愛の讃歌」作詞エディット・ピアフ

エディット・ピアフ 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より


coucouさんが初めて「愛の賛歌」を聞いたのは高校生でした。この歌は、日本では、岩谷時子さんの訳詞で越路吹雪さんが歌って有名ですね。

1969年の紅白歌合戦で日本中に知れ渡りました。岩谷さんはこれで一躍有名になりました。
この詞の明るさが、やがて結婚披露宴で歌われるようになり、本田美奈子さん、桑田佳佑など数多くの歌手が歌いました。

また、様々なバージョンががあり、岸洋子さん、美川憲一さん、岸洋子さん、淡谷のり子、美空ひばり、加藤登紀子、宇多田ヒカルが歌いましたが、ピアフの本当の詞の意味とは違うものでした。

若きcoucouさんは、結婚披露宴などでこの曲が流されるたびに違和感を感じていました。

最近では、NHKの連続テレビ小説「花子とアン」のBGМでフルコーラスで流れたのは記憶に新しいですね。

「もしもいつか 人生があなたをうばっても

 あなたが死んでも あなたが遠くに行っても

 あなたが愛してくれさえすれば平気

 だって私も死ぬのだから」

あまりにも悲しい人生、あまりにも切ない別れの中で、ピアフの原詞の一部には、後悔のない人生だったのだと感じてしまいます。

彼女は愛に生きて、愛を愛して、愛とともに去った。それがすべてだったのですね。


みなさん、ごきげんよう!

明日もよろしくね!

ありがとう。



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