見出し画像

小説家になる夢はアダルトビデオを観て諦めた

 十年経っても忘れられない思い出がある。それは私が中学生か、高校生の頃だっただろうか。夏の夜、友人数人とアダルトビデオを見る機会があった。
 経験のない私達は練習の一環としてその儀式(?)を行い、来るべき日のために知識を共有、ひいては自身に落とし込む必要があった。今考えれば正気の沙汰ではないし、勿論大人数でする必要はない。一人でやればいい。ただ、当時の私達はそう考えるには些か若く、視野が狭かった。そして、乏しい頭から導き出された答えがアダルトビデオ鑑賞会であった。
 その時観たのは、カップルがイチャイチャして、その後ことに及ぶストーリーのアダルトビデオだった。

 場面は可愛らしいワンルーム。部屋着のセクシー女優が、彼氏目線で映されていた。当時はGoProみたいに便利なものは無かったので、恐らく彼氏役が大きなカメラを抱えて撮っていたのだろうと推察される。
「お腹すいたー」
 彼女は猫なで声で、カメラの奥にいる彼氏に訴えた。
「(オムライス作ったから、食べる?)」
 感情移入を促すためか彼氏の声は入っておらず、下に字幕が表示される。
 彼女は「うん!食べる食べる!」と嬉しそうに笑った。
 普通の演技は本業ではないので、リアクションはぎこちなく、わざとらしく聞こえた。
 彼氏が用意したオムライスを渡すと、彼女は一口だけ食べた。すると、彼女は悶えて「美味しい、美味しい」と噛み締めるように言った。
 その光景はなんだか微笑ましく、崇高なものに見える。ある種のホームビデオのような温かみがあり、アダルトビデオであることを忘れてしまいそうだ。
「(どのくらい美味しい?)」
 彼氏は恐る恐る彼女に尋ねる。
 多分、この質問は台本になかったのだろう。彼女は数秒悩んでから、満面の笑みで答えた。
「ううんと、当たりつきの自販機が当たった時くらい!そのくらい美味しい!」
 ……どういうことだ。何を言っているんだ、こいつは。その言葉は脳の表面を滑り、理解が追い付かなかない。しかし言葉の本質を考えると、なんと素晴らしい表現だと驚嘆した。

 当たりつき自販機とは、商品を購入すると同時に金額表示部に四桁の数字が一つずつ表示され、同じ数字がそろえばもう一つタダで貰えるあれだ。それは基本的に、「嬉しさ」のレベルを例える場合に使うべき表現である。
 普通の感性の人間が「どのくらい美味しい?」と問われれば、「高級ホテルのディナーくらい美味しい」とか、「お店で出しても恥ずかしくない」みたいな言葉で答えるだろう。本来、美味しいのレベルを表現する場合はそういうもので、それが正しい。
 しかし、このセクシー女優は「当たりつき自販機で当たったくらい美味しい」と言ってのけたのだ。美味しさの尺度ではない。彼女は「嬉しさ」の尺度で美味しさを表現した。
 一見彼女が例え方を間違えたかと思うかもしれない。実際、ビデオ内でも二人で顔を見合わせ笑っていた。だが、そんな浅い話ではない。
 「美味しい」の内情はつまるところ、「美味しいものを食べることが出来て、嬉しい」なのだ。だから、彼女は何も間違えていない。ベクトルが違うようで、実は同じ方向を向いている。彼女は「美味しい」の本質を見抜き、一般的な認識よりも深いところで表現している。

 また、「当たりつきの自販機が当たった時くらい」というのもいい。
 彼氏の手前大袈裟に喜んで見せるが、家で作るこだわりのないオムライスなんて、所詮「うん、まあまあ美味しいね」くらいの美味しさだ。十段階評価で言えば、下駄を履かせても三か四が良いとこだろう。
 そのレベルを、「当たりつきの自販機が当たった時くらい」と表現したのだ。両手を上げて嬉しがるレベルでもなく、かといって些細過ぎるとも言えない。「あ、やった。得したなあ」くらいの、平静を保ちつつ少しだけ気分が高揚するあの感覚。その「嬉しさ」は正に素人自家製オムライス(彼氏作)を食べた時の「嬉しさ」にピッタリだ。

 セクシー女優が無意識に導いたその言葉は、私の脳内に焼き付いて離れない。性の知識を蓄えるという本来の目的はもはやどうでもよくなり、その言葉ばかり反芻していた。
 表現とはこれ程までに奥深く自由なのだ。比喩表現は理解しやすいものほど評価される昨今だが、難解なものもまた素晴らしい。そして生半可に知識を得て、凝り固まってしまった私の頭では、そんな表現は生み出せない。私は目が血走る友人を横目に、ひっそりと夢を諦めた。

この記事が参加している募集

夏の思い出

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

こんなところで使うお金があるなら美味しいコーヒーでも飲んでくださいね