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短編小説 純(すみ)ちゃんの声が聞こえる(『老いの恋文』第3部)

列車の中での一瞬の再会。
7年前の面影が軽やかな声とともに蘇る。
二人を乗せた列車は時の彼方へ再び走り去ってゆく。


 私は名古屋行の東海道本線に刈谷駅から乗りこんだ。ラッシュ時間は過ぎていたが、電車は割と混んでいた。運よく座ることができた。4人掛けのボックスの通路側、進行方向向きの席である。刈谷駅から2つめの共和の駅から女性の二人連れが乗ってきた。二人の席はなく、二人はちょうど私のボックスの横に立った。私には親子のように見えた。二人はまもなくおしゃべりを始めた。
「あ、新幹線。」
そのあたりは、在来線と新幹線が平行して走っているのである。新幹線が勢いよく、乗っていた在来線を追い抜いて行ったのである。
「今の新幹線、ひかりかこだまかわかる?」
「さあ。」
「こだまよ。」
「どうしてわかるの?」
「先頭の車両のヘッドライトがついてなかったからよ。ひかりはついてるの。」
「そんなこと聞いたことないわ。それに見てなかったくせに。」
声の感じから、先に質問をしたのが母親で、答えたのが娘のようであった。娘は高校生ぐらいの声に感じられた。高校生の娘にこんな子供じみた質問をするなんて、気の若い母親だなと思った。
「じゃあ、さっきの新幹線何両だったかわかる?」
今度は娘が切り返した。
「わからない。」
母親はあっさりと降参した。
「16両よ。」と娘。
「ふふ、自分こそ数えてなかったくせに。」
と母。
何という会話だろうか。まるで友だち同士のように高校生の娘と母親が楽しそうに喋っている。それもただのお喋りではなく、ちょっとウイットの利いた会話をしている。頭のいい親子なのだろう。しかし、ちょっと待てよ、娘は高校生?学校はどうしたんだ。高校生が母親と電車に乗る時間ではない。高校生ではなく、もっと年上なのかもしれない。それにしても若々しい、と言うより、可愛いい、子どものような声だ・・・・。そこまで思いを巡らせた時、何年か前にも同じような経験をしたことを、私は思い出した。
 あれは今から7年前、高校2年の4月、進級したばかりで、自己紹介の時間だった。五十音順に男子から始めて、女子の最初の生徒が、前に出て喋り始めた時だった。妙に可愛い声が聞こえてきた。高校生の声とは思われなかった。ふざけてわざと子供っぽい声を出しているんだろうと思った。誰だ、ふざけて自己紹介をしてるやつは、と思って私は顔を上げてその生徒の顔を見つめた。ふざけてはいなかった。少し恥ずかしそうにうつむき加減で、一生懸命自己紹介しようとしていた。もともと子どもっぽい声なのだろう。そして、その声に似合った美少女だった。目が大きくてあごが細かった。
 あの時の声と同じ声なのか、と確かめる思いで、私は気持ちを集中して二人の会話に耳を傾け始めた。親子は今度は声をひそめて、何やらまじめな話をしている。「会場」とか「時間」とかいう言葉が聞こえてきた。そして「引き出物」という言葉が私の耳に入った時、私はすべてを察した。親子はこれから娘の結婚式場の下見にいくのであろう、と。そしてその娘の声が、あの時の同級生の生徒の声に違いないことも確信した。しかし、今回は顔を上げて相手の顔を確かめる勇気はなかった。相手の顔を見るにはあまりにも近すぎた。そうか、もう結婚するんだ。おめでとう。私は心の中でつぶやいた。私はその時、6年間も籍をおいた大学に退学届を提出するために電車に乗っていたのである。退学したあとは、父親の自営業を手伝う予定でいた。とりあえず手伝うだけで継ぐ気はなかった。先のことは全く白紙であった。結婚という、希望に満ちた船出をする人間と、大学を中退して自宅に引きこもっていこうとしている人間が、奇妙な再会をしたものだ。
 電車が名古屋駅に着いて、乗客が降り始めた。親子が、私のそばから出口の方へ移動を始めた。私が席から立ち上がって、出口の方を見た時、チラッと娘の横顔が見えた。間違いなく、同級生の彼女であった。彼女の顔はその時の私にはまぶしかった。自己紹介の時にチラッと見上げたあの時の面影がそのままそこにあった。出口から降りる瞬間、彼女が私の方を振り返った。ほんの一瞬である。私の勘違いかもしれない。しかし、あの電車に私が乗っていたことに、彼女は気づいていたのではないか、と私は思った。私に結婚することをさりげなく知らせるために、わざと結婚の話を母親としたのではないかと。
 今でも私の耳の奥では高校2年の時の彼女の声がさわやかに響いている。

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