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風の歌を聴け/村上春樹 考察3

引き続き考察をしていきたいと思います。

今回から本題のストーリーへと入っていきます。ここからは僕が夏の間の18日間に体験したことが書かれています。

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金持ちなんて・みんな・糞くらえさ。

鼠という新たな登場人物の台詞ですね。バーのカウンターで僕と隣り合ってビールを飲んでる最中に大声でどなったようです。ただ狭い店内に多くの客が溢れて騒ついている為、誰も気にしない様子が書かれています。

それはまるで沈没寸前の客船といった光景だった。

著者特有の抜群の例え(比喩表現)が出ましたね。著者の小説には、独特に言い換えられた表現がとても面白く、私はより頭にイメージしやすいと感じています。

鼠はそれっきり口をつぐむと、カウンターに載せた手の細い指をたき火にでもあたるような具合にひっくり返しながら何度も丹念に眺めた。

イメージ出来ますよね?著者の文章は、五感で感じる物事をより読者に分かりやすく表現するのがとても上手いなと思います。他の作品でも関心させられる表現がいくつもあります。

鼠の話に戻ります。どうやら鼠は金持ちをかなり嫌っているようですね。ただ鼠の家は相当な金持ちであることも書いています。そんな鼠がなぜ金持ちが嫌いなのか理由が書いてあります。

はっきり言ってね、金持ちなんて何も考えないからさ。懐中電灯とものさしが無きゃ自分の尻も搔けやしない。

金持ちが何も考えない理由として、金持ちであり続ける為には何も要らないからと書いてますね。対照的にそうでない人は、生きる為に考え続けないといけないと。天候を気にしたり、風呂に水を貯めるにはどうすれば良いか考えたり。差し迫る日常の中で生き抜く為の知恵が必要と解釈しました。さらに、なぜか懐中電灯とものさしが表現されていますね。懐中電灯=何かを照らすもの、ものさし=周りの人の心の深さを測るもの、いわゆる道具を使うこと。つまりは、金持ちは自分の身の回りの世話でさえ自分の身体一つで行うことが出来ないと。自分の事さえ考えれないのに、他人を思いやることなんて出来るはずがないと言いたいのでしょうか。それは鼠が金持ちの両親に愛情を受けていないことを嘆いているようにも思えました。

「でも結局は死ぬ。」僕は試しにそう言ってみた。「そりゃそうさ。みんないつかは死ぬ。でもね、それまでに50年は生きなきゃならんし、いろんなことを考えながら50年生きるのは、はっきり言って何も考えずに5千年生きるよりずっと疲れる。そうだろ?」そのとおりだった。

僕がそう言った理由について私なりに考えました。恐らく、冒頭で祖母が死んだ時に明るい夢も消えて何ひとつ残らなかったことが一つの教訓になっていて、そうゆう経験を踏まえてどこか割り切ったような性格になってしまったのだと思いました。でも鼠は鼠でそんな僕の涼しげな言い分に、自分の考えをきっぱりと反論して僕を納得させるに至りました。何かを考えるって思ってる以上に重労働なんですよね。だから皆出来れば何も考えたくないんです。大金が手に入れば鬱が治るって何かの研究で証明されてるくらいですから。

ここで僕と鼠が3年前の大学生になりたての年に初めて出会った日の事について詳しく書かれています。簡単に説明すると、なぜか随分と酔っ払った2人が何らかの事情で、朝の4時に鼠の車に乗り合わせて事故を起こすんです。それでも奇跡的にお互い怪我一つなかった為、運の良い2人としてチームを組んで仲良くなるんですね。ちなみにこの猿の檻がある公園は、兵庫県芦屋市にある打出公園といって著者の生まれ故郷にある公園なんです。後でも書かれてますが前は海、後ろは山、隣には巨大な港街がある、そして僕が生まれ、育った街、つまり芦屋・神戸が舞台になっているんですね。ちなみに私も兵庫県出身ですので、この作品を読む度にノスタルジアな思いに耽るのです。

次に、鼠はおそろしく本を読まないとの始まりから、僕と鼠がお馴染みジェイズバーで小説についての話題で会話をしているシーンです。

僕が時折時間潰しに読んでいる本を、彼はいつもまるで蠅が蠅叩きを眺めるように物珍しそうにのぞきこんだ。

ここでも著者特有の面白い表現で書かれてますね。蠅にとっては使い方の分からない(何の意味もない)蠅叩きについて物珍しそうに眺める姿を想像したら、蠅叩きについて知っている私たちからすれば滑稽に思えて仕方ないですよね。それはあんたを倒す道具だよって。つまり鼠にとっては何の興味もない本を主人公の僕がなぜそこまで熱心に読むのだろう?と不思議に思っている姿を、僕の視点から見て滑稽に思えたのだと私は思います。なぜなら僕が読んでいる本は、フローベル著の『感情教育』、つまり最近、怒鳴ったり感情をコントロール出来ない鼠に対して、主人公の僕が何とかしたいと思って読んでいる本だと推測できます。僕からしてみれば、君(鼠)を抑制する為の道具(本)だよ。と。ここまで読み解けば、蠅の例えに脱帽しますよね?

さらに会話は続き、僕が「既に死んだ人間の本にしか価値がない」と言うと、鼠はその理由として「死んだ人間については大抵の事を許せそうな気がするから」と言い当てた。その上で、「生身の人間はどう?」とさらに深く質問し、僕は「そんな風に真剣に考えたことない。切羽詰まったら考えるかもしれない。」と答え、結論として「どうしても許せない場合は寝て忘れるよ。」とあまり執着心のない僕に対して鼠は信じられない気持ちになっていますね。まず、「死んだ人間については大抵の事が許せる」という点では僕も鼠も同じ意見なのです。さらに「生きている人間(現時点で地球上に存在している人間)については許せない事がある。」これについても同意見です。僕と鼠が明らかに考えが異なるのは、「生身の人間(身近な人)について許せるかどうか」という点ですね。そもそも僕に関しては、身近な人の事に目を向けて真剣に悩んだことがないように捉えることが出来ます。どこか淡白な性格に思えます。それに対し、鼠は金持ちが許せないと発言したように両親に対しても許せないし、もしかしたら金持ちに生まれた自分自身を許せないでいる可能性もあります。さらにそんな気持ちをどう扱えばいいのかも分からないといった具合に思えました。

続いて、恐ろしく本を読まない鼠が、去年の夏に最後に読んだ本について話し始めるシーンです。なぜ本の話?と思ったのですが、私が考えるに、これは鼠が主人公の僕に対して本の話題で興味を惹こうとしているからだと思います。その本は、30歳ばかりのファッションデザイナーの女が不治の病に侵されていると知って、ところ構わず自慰行為をするという内容で、鼠は他に書くべきことはいくらでもあると批評してます。書くという行為は、表現すること、つまり人に伝える行為であって、この先の話にしっかりと書かれていますが、存在意義をもたらす行為であることなんですよね。冒頭で、主人公の僕が、自分に関わった人たちの存在意義を見出す為に全てここに話す(書き表す)ことを決めたのと同じです。これを踏まえた上で鼠の気持ちを汲むとすれば、死ぬと分かっている女の存在意義が全く書かれていないということです。たしかに存在意義を見出す為には、自慰行為よりも他に書くべきことはいくらでもありますよね。

そして自分なら全然違った小説を書くと言って、その内容についての説明のシーンに入ります。

俺の乗っていた船が太平洋のまん中で沈没するのさ。そこで俺は浮輪につかまって星を見ながら1人っきりで夜の海を漂っている。静かな、綺麗な夜さ。するとね、向うの方からこれも浮輪につかまった若い女が泳いでくるんだな。

船が沈没して太平洋の真ん中に放り出されたのに、星を見るくらい冷静でいれることがまず不思議に思ったのですが、もしかしたら死を覚悟していたからかもしれません。

そして、海の真ん中で船の食堂から流れ出た缶ビールをその若い女と飲みながら世間話をしています。夜が明けてくると、女は島のほうに泳いでいくと言って、ここにいれば救助隊が助けに来ると鼠が制止しても結局行ってしまいました。これについて私が考えるに、鼠の実体験について書かれているのではないかと思いました。もちろん太平洋の真ん中に放り出されるという場面はあくまで小説としてのストーリーとして設定されているだけで、死を覚悟しているという気持ちを日常の中で抱いているのではないか?と思いました。そして話の中の若い女は、鼠が現実世界で実際に出会った女であり、女の方はこのまま惰性的な生活を続けたくないと思い、鼠の元を離れていったのではないかと思いました。そして何年か後に偶然、山の手の小さなバーで巡り会うそうです。このバーはジェイズバーですね。実際にジェイズバーで数年前に別れた彼女と出会ったのでしょう。「悲しくないか?」と鼠が言った気持ちが分かりますよね?

鼠の小説には優れた点が優れた点が二つある。まずセックス・シーンの無いことと、それから一人も人が死なないことだ。放って置いても人は死ぬし、女と寝る。そうゆうものだ。

私が思うところ、著者の小説の多くには、大抵その二つが含まれているので、自分の作品と対照的な点、自分の作品にはない点としてそれを優れた点だと挙げているのではないかと思います。また主人公の僕は死ぬ人死ぬし、寝る人は寝るだろうと他人の人生について放任主義(関与しない)であるが、鼠は死や生命にしっかりと向き合っているからこそ簡単に人を死なせないし、生殖行為について軽率な表現で書かないのだと思いました。

その後まるで小説から現実世界にタイムスリップしたように、鼠と若い女がバーで話しているシーンに変わります。これは現実世界で鼠と元彼女がジェイズバーで話しているシーンと重ねているのでしょう。そして女は必死で島まで泳いでる最中に、自分が間違ってて鼠が正しいのかもしれないと、何故鼠は自分が苦しんでるのに何もせずに海の上にじっと浮かんでいるのだろうと何度も考えたと書いています。いわゆる、元彼女が過去に付き合っていた頃の話を掘り返しているのでしょう。恋愛でなくても、誰もが自分が選択したことについて本当にそれで良かったのか悩みますよね。そして納得する為には少なからず正しさの証明が必要です。だから鼠が死ねば、元彼女が正しかったことが証明されるわけです。「本当に少し?」と鼠が聞き返したのは、彼女が自分の正しさの証明として本心では鼠に死んで欲しかったのではないかと疑っているからでしょうね。

「ねぇ、人間は生まれつき不公平に作られている。」「誰の言葉?」「ジョン・F・ケネディー。」

この言葉を始めとして、この先のストーリーには度々ジョン・F・ケネディの名前が出てきます。それが何を意味しているのか考えながら読んでみるとよりこの物語が深まりますよ。

それでは考察4に続きます。




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