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「何事も、許可無しでは決められない」症候群

次の質問に答えよ:何かをする時、誰かの許可なく行動することを不安に感じますか?   →はい・いいえ

誰に許可を得るわけでもなく、「自分がやりたいと思ったから」という理由で行動できる人を羨ましく思う。自分自身の判断に責任を持ち、歩いて行ける人なのだろう。

生きていると、帰路に立たされることはとても多い。パッと頭に浮かぶもので例えるとするなら大きいものだと進学や就職、結婚などが上げられるし、もっと小さいものだと今日の夜何を食べるかや、次の日の朝が早い日の夜に遊びに行くかどうかなど本当に多種多様な岐路があり、あたり前のことではあるが、その度に人は「選択」をしていかなければならない。

「帰路と呼ぶには大げさだろう」と思うようなことでも、その都度私たちがしている「選択」は私たちの人生を変える可能性がある。その意味で、私はこういったすべての「選択」を「帰路」だととらえている。

岐路に立たされた時にしたその「選択」、自分の力で決めたことですか?

「いいんじゃない」が欲しくって

冒頭の質問に、私は迷わず「はい」と答える。私はつい最近まで自分だけの思考で何かを決断したことがほとんどなかったからだ。

私「~~だと思うんだけどどう思う?」相手「いいんじゃない。」


この「いいんじゃない」がないと不安で不安でなにも行動に移せなかった。「いいんじゃない」という言葉は同意と許可の意味合いが含まれている気がしている。

「○○な理由で~~だと思うから、そうするね」

自分で勝手に決めてそれを黙って行動に移す。これがどうしてもできなかったのだ。もちろん、すぐに「いいんじゃない」が相手の口から出ない時もある。そんな時は何度も何度も、同じ話を違うアプローチからしてどうにかこの「いいんじゃない」を引き出すよう努めていた。


それでも、私はここ最近ようやく少しだけ「いいんじゃない」が無くても行動できるようになった。他者との依存関係の上でしか物事を決められない自分が嫌になったのと、お付き合いをしているパートナーにこう言ってもらえたからである。

「のんちゃん、誰からも『いいんじゃない』と言ってもらえなくても、やりたいことならやってもいいんだよ。僕がそれを許可するよ。」

初めて何かから解放された気がした。自分で自分の人生を設計して、歩んでいいということに気が付いた瞬間だった。

生きたいように生きる許可

なぜ今回この記事をかいたのか。先日、ベトナムで共にインターンをしている仲間の友人が亡くなった。彼は葬儀だけ出てすぐにベトナムに戻るか、1週間ほど日本に滞在するかをひどく悩んでいるようだった。彼はベトナムに来る前も他の国に留学しており、その足でベトナムに来たのでしばらく日本へは戻っていなかった。

話しているうちに気付いたのは、今、彼は「いいんじゃない」という許可の形を欲しているのだなということだった。その「いいんじゃない」を得ることで彼は背中を押され、亡くなった友人を悼み、しばらく会っていない家族とも大事な時間を過ごすことができるのだろうと思った。私は「いいと思う。1週間くらい帰って全然いいと思う。」と伝えた。もちろんそう思う理由も添えて。

その答えを聞き、彼は安堵したようだった。私と彼は部署も違うし、一緒にやっている仕事は一つもない。その観点では私の発言は無責任にも思えるだろう。しかし彼は「相談してよかった、おかげで決められた」と言っていた。仕事の引継ぎやその他の細かいことはうまくやるだろう。ここで彼が求めていたのはあくまで「いいんじゃない」なのだ。


私は「許可を求めること」をやめたほうがいいとはあまり思っていない。自分も許可にこだわる人間だから。「いいんじゃない」が必要な人は、きっと「いいんじゃない」が必要な人に「いいんじゃない」と言ってあげられるだろう。相手の背中を押してあげられるだろう。それでも、私はこの言葉に救われた。考え方の転換のきっかけのために、この言葉を記録しておきたい。

自分のやりたいこと、決めたいことは誰から許可を得てなくても、やっていいし決めていい。自分の生きたいように、生きていい。そう生きることへの許可はここにある。

心に残った言葉のおすそ分け。
生きづらいだれかが少しでも生きやすくなりますように。



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