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初夏の香が部屋中に広がって

どこからか届いた箱から溢れるほどのイチゴが机の上。
部屋中、もう玄関を入ったらその甘酸っぱい香りがする。
玄関から廊下、台所、自分の部屋にまで充満している。
こんなにイチゴに満ち溢れた空間は新鮮だ。

僕はこれからも音楽を続ける。また1から始める。
僕はロックを止めない。でも語るのは今は止めておこう。

若い頃は生きている事が前提で別の何かに苦しんでいた。
今は生きていることが「当たり前」では無くなったが、それでも現状ただ過ぎていて、「僕の人生は」に続く言葉に詰まってしまうと思う。
今の自分が立っている世界や日常を言語化できない。
「僕らの人生は」「幸せになる為に」「お前らに分かってたまるか」とはもう今は言えない。けれど、その次にあるはずの新しい今の僕を表現する言葉が出てこない。

みんなはどんな日々を送っているのだろうか。
今頃何をしているのだろうか。
何を想い、誰を思い出しているのだろうか、そこに僕はいるか。

もう言葉にするのを止めて歩き出すと、ただただ惰性で漫然と家畜のような生活を自分はしているような気がした。
こんな日々を謳えるはずがない。

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僕は彼女に手紙どころか荷物を送った。送り付けたわけではない。
でも彼女は僕の事を一つも理解も出来ないし、もうする気も無くなってきている頃だろう。人間そんなもんだ。

突き付けたナイフが自分には届かない時点で、時間が経つにつれて、どうしたらどうしたらと戸惑っているふりすらしなくなる。僕はそう考える。

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最近、書道をする人と出逢った。色々あるらしい。
そういえば、かおるも書道をしていた。大阪のどこかに最後、展覧会に作品を見に行った事を思い出した。本人はいなかったが、本名の上に飾られている作品には「浮遊」と書かれていた。

僕はその頃から、「作品の価値は、作者に惚れ込めるか」「そのアーティストの物語にお金を払えるか」が僕の中では重要なファクターの一つだった。
音楽でもそう。出音(スピーカーから出てくる音)だけで評価するなら僕はわざわざCDを買ったりはしない。作者(アーティスト)と作品とが魅力的で価値があるかが本題だ。
出音だけで踊れるなら今の時代ならパソコン(AI)や作ってしまうだろうし、それならもうイージーリスニングで耳障りのいい、それなりの音で十分だと思っている。
もしかしたらそれがLo-Fiミュージックが流行ってはいるが僕が深く掘り探したり音源を買おうと一切思わない理由になっているのかもしれない。


「眠らないは眠りたい」

最近、時々そう口ずさんでしまう。

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メッセージレターで

「人間として好きとは何ですか? 教えてください」

と書かれた匿名のレターが届いた。

僕は「人間として好きっていうのは、男とか女とか関係なく、人間として魅力的、かっこいい、要はその人に惚れ込めるかって事だと思う。」そう返事をした。

ここでいちいち幸せとはと話を展開はしないけれど、その人に自分の人生の力を割り振れるか、限られた時間や何か大切なものを割けるかって事。

結婚するというのは僕の理屈だけど、その人を幸せにしたい、その人を守りたい、その人に自分の人生を捧げたいと想えるかどうかが大事な要素だと僕は思っている。

相手の人生を背負えるのか、その人に尽くせるのか。そんな甘い言葉が並ぶけれど、僕の生々しい現実論はこれだ。

世の中の一般論とやら、現実は、と言われる他人の言葉は僕には当てはまらない。僕は好きな人、大切な人、愛する人と一緒に幸せになれるのは、相手をそこまで想い合える気持ちが欠かせないのだと思うのだけれど。

君はどう?

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僕は初見では分かりにくい。理解されない。
僕は良い人じゃない。優しい人じゃない。
僕は変な人で、好きな人だけに優しすぎるのだ。

だから僕は、合わない人がいる。
「好き」「嫌い」と「合う」「合わない」は違う。
主観と相性。

僕も気が付かずに、その時その場の勢いで失言、好きすぎて相手が好ましく思わないような言動をしてしまっていることがある。

だから僕は声にする。
「ありがとう」「ごめんなさい」を言葉にして相手にはっきりと伝える。
それでもそれが正しいとは限らない。
それが裏目逆手になってしまう事もある。悲しい、残念。
だけどそういうもんだ。所詮は人間、仕方がないよね。

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僕は言葉のキャッチボールができる人が好き。

物語を共有する過程が一緒にできる人が好き。

でも、言葉なんか交わさなくても

ずっと好きでいられる人がもっと好き。



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