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「国語よ、この国から出て行け」高校生の痛烈な叫び

「国語よ、この国から出て行け」

とある高校の文化祭。とある生徒が着るクラスTシャツの背中に書かれた文字。
この高校生の痛烈な叫びから、我々は一体何を聞き取ることができるのだろうか。

りおな/高校国語さん、大変興味深く読ませて頂きました。勝手に記事を引用しましたが、不都合等ございましたらご連絡ください。


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教育科目の一つである国語。評論文や小説、あるいは古文漢文を読み、筆者の考えを述べよだとかの問題に答える科目。文部科学省によると、その目標の一つに、思考力や想像力を伸ばし,心情を豊かにし…とある。
これは至極真っ当な目標である。実際に文章を読むことで、例えば筆者の考え方や感じ方を自己の内に同化させ新しい価値観を形成することができ、あるいは、自分との相違点を発見することで自身の思考の枠組みを知ることができる。古典を読めば過去の偉人の考え方を知ることができ、現代にも通ずる思考法を学ぶことができる。小説などを読めば、主人公の行動や心情の変化を疑似的に体験することができる。そのような営みを通じて、思考力や創造力を養い,また他人の心情に想像を働かせるようになり、人として成長することができる。

さらに、その過程で学びの楽しさがある。思いもしなかった価値観に触れるとき。自分の思考や既成観念をいとも簡単に覆してくれるとき。もやもやした感情を清々しくことばとして表現してくれるとき。等々、文章を読むことの楽しさの例を挙げると枚挙の暇がない。

しかし、実際の教育の場で国語科目が、生徒をこのような学びの楽しさに触れさせ、思考力や想像力を伸ばし心情を豊かにするようなシステムになっているのだろうか。

答えはノーである。

ここでの、ノーという主張は、つい最近まで現代の教育の内に身をおき国語を教わる生徒の立場にいた1サンプルである私の意見である。



国語において、問題に正解することに意味はあるのか?

国語の楽しさは以上に述べた通りである。しかし、国語科目を学ぶ生徒がこれらを享受しているかと言われればそうではない。なぜなら、生徒にとって最も重要なことは、文章を読んでそれに感嘆したり、自分の経験や感覚と照らし合わせて吟味したり、時には批判的な視点からその文章を読んでみることではない。

むしろ、そのような自分の感覚や感情を押し殺し、文章の解釈をたった一つに絞り、問題に回答し、テストで良い点数を取ることであるからだ。

現代の教育において生徒の喫緊の問題は、テストでいい点数を取ることである。良い点数をとれば、自信がつき、周囲から尊敬の念を集め、先生や親に褒められ、良い大学に進学できる。逆に悪い点数を取れば、自信を失くし、周りからあほだと思われ、先生や親からはため息が出てくる。行きたい大学に入れず進路を縮める可能性もある。

つまり現在の国語教育の場において、どれほど文章を自己の内に深く染み込むまで熟読し、感嘆し、人生の指標となるものをその文章の中から発見したりすることは点数にならないので重要でない。むしろ、最も重要なことは1つしかない文章の解釈、それも出題者によってなされた解釈を探り当て、問題に回答し、正解することである。



しかし、解釈を一つに狭めるようなことはあってよいのだろうか。ある音楽を聴いた人が100人いれば100通りの感じ方があるように、感じ方は無限に開かれているべきではないのか。


「国語よ、この国から出て行け」
何が、この生徒にこのように叫ばせたのか。


この叫びを我々は聞き逃すわけにはいかない。

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