究極の救い

この所、自分の日記が気に入らない。本当は、世の中の物質も精神も、全てが憎く、一切の、醜さ、残酷さ、愚かさ、これらを丁度良く表現し、糾弾し、嘆き、憎悪する演説を、この日記上で行いたいのだが、どうも、気温の低下と云う救いが俄にあるばかりに、しっかりと演説をするに至る精神状態にならない。結局、多少は救いがあるから今は我慢しておいた方が楽だと、私が憎悪する存在にとっては非常に好都合な結論にしか導かれない。それはまるで、過酷な労働環境にあるプロレタリアがされど衣食住は確保出来ているからと言って、己がプロレタリアである事を忘れ小市民へと成り下がる様な醜さ、愚かさと通づるものがある。

ふと、全てが消えてしまえば良いと思う事がある。何、これは然程特別な事ではなかろう。全てが消えれば、生まれる事も滅する事も、汚れも清めも、増える事も減る事も、何も無くなるのだから、それはもう、一切の苦しみが消えるだろうと、その状態を密かに描き、理想とし、憧れる人間は、古今東西何処にでも居たはずだ。しかし、俄に快感が、救いが、幸福が、一方である為に、それら諸共全て無に帰すと想像すると、炎が急に燃え上がる様に、先に描いた理想の光景に待ったをかける己も居る。つまり、絶望が足らんのである。苦しみを、完全に直視する事に成功していないのである。されどそれでは、一体何が究極の救いなのかと問われれば、大変困ってしまう。求めれば得られず、求めなければ滅する。私は何をすれば良いのか。

尊師は言った。「僕の言う"救い"と云うのはもう少し具体的な意味があって、それは、今しんどくて、今生きるのがしんどい人に対して、ほんの少しでも生きてみようかなと思える様な、そんな感情を抱かせる存在の事を言うんです。それが、食事でもいい、くだらない雑談でもいい。」加えて、「ましてや、全世界、全人類を完全に救えるとも、救いたいとも思っていないんです。僕が目指しているのは、そんな大きな事ではなくて、もう少し小さい、そして身近な、僅かだけど確実な、救いを広げる事なんです。」と、言った。この言葉が、尊師とはもうしばらく会っていない今でも日々頭の中で反芻される。しかし、この言葉をより噛み砕いてみては、どうだろう。尊師は、究極の救いについては答えなかった、究極の救いについて言及する事は避けた、はたまた、それを知らなかった、とも言えるのではないか。いや、実際私の知る尊師は、それを知らないだろう。だからこそ、苦しみの中で僅かな、儚い、救いについて言及したのだと思う。

尊師ですら、究極の救いについて知らないのである。頓服薬、鎮痛剤、と言った類いの気休めについては存在を認めつつも、究極の闘病方法については言及を避けたのである。救い様の無さと、格闘していたのである。それを思うと、私も、尊師も、はたまた頭の中で思う浮かぶ何人かの人物も、なんと哀れだろうと思えてくる。いや、全人類が哀れと言っても良い。救われない中で、されど今日も必死で汗をかき、僅かな救いを求め、その影響で自傷他害が、暴力が、あらゆる所で発生している。ここは、なんと醜い所だろうか。最終的に主人公が幸せになって幕を閉じる創作に触れると、そんな馬鹿なと思う。実にくだらん幕の閉じ方だと思う。そんな幸せは一過性のものであり、究極のものでは決してない。ここは、そう云う世界である。

少し、気温が上がった。今日は初秋と言うより晩夏である。確かに風が吹けばやや涼しく、夏真っ盛りの天気とは差があるが、本当の秋や、極寒の冬は、まだまだ遠いと思えてならない。遠くの山や、開けた空を見上げようと思ったが、やめた。そんな事をしても、今日は期待を裏切られそうであった。

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