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詩日記

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日記的詩
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2024年2月の記事一覧

たった一杯の珈琲

たった一杯の珈琲が
世界に平和をもたらすことはできないけれど、
たった一杯の珈琲が
あなたの心を柔らかく抱きしめてくれるよ。

たった一杯の珈琲が
多くのお金を得ることはできないけれど、
たった一杯の珈琲が
あなたとあなたの大切な人の幸せを祈ってくれるよ。

たった一杯の珈琲が
あなたの人生を変えることはできないけれど、
たった一杯の珈琲が
あなたが生きる今を肯定してくれるよ。

忙しない日々に首

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赤裂

冬と春の間を吹き上げる冷たい風が
ぱっくり開いた中指の赤裂に針みたく突き刺さり
全体が赤黒く澱んだ手を
薄いコートのポケットに突っ込む

赤裂は
何度も塗りたくった軟膏の効用が
追い付けない早さで深く
傷を拡げる

天気予報を裏切った晩冬の雨が
赤裂を負った手を撫でて握り締める

雨に滲んだ血が地面に滴る

喧騒

駅前の高架下で賑わう若者が
安い酒缶あるいは短い煙草を手に持ち
語らう言葉は吐いた息と共に無意味な空気となる

ひとつの集団ともうひとつの集団との間を
冷たい風が吹き上げる

どんなに深い夜も
人間が歩くための道を照らす明かりは消えない
美しい満月の夜でさえも

ずっと探していた花

冬が寒ければ寒いほど
夜が更ければ更けるほど
闇が深ければ深いほど
人と人とが
混ざり合い
重なり合い
交じり合う
都会の冬夜

ほんの一瞬
振り返れば一瞬だったはずなのに
その時は永遠だと思い込んでしまった
その一瞬

あるはずの物事がなく
何もかもがない
そんな一瞬が訪れた

朝の澄んだ空を飛ぶ様に
暗く深い海を沈む様に
一瞬を全身で受容した

永遠みたいな一瞬から覚めて
足元を見れば
ずっと

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満月

ぷっくらまんまるの満月が

雲の流れに流されず

夜の暗さに隠されず

高層ビル群に埋められた冬空の隙間に

そっと佇む姿を

電車が来るまでの五分間

じっと見ている

吐く息の白さ

吐く息の白さは、
雪解け水の様に冷たく、
深海水の様に暗く、
果実が含む水の様に柔らかい。

吐くたびに、
白と白とが交錯し、
白くない息を吸う。

乗るはずの電車を一本見送る。

次の電車が来るまでの間、
穏やかだった気持ちが揺れそうになるのを、
哀しみで抑え支える。

坂道

小川に沿ってなだらかに続く坂道を
自転車を押しながらゆっくり登る

坂道の先で今にも雨が降りそうな曇り空が
空一面目一杯に広がる

途中バス停のベンチに座って
何度か息を吸って吸った分の息を吐く

自転車の籠に載せた買い物袋から
あんぱんを取り出して食べようか悩む

やっぱり買い物袋に戻して
長い坂道をゆっくり歩き出す

雨の日に乗った電車

湿った髪の臭いや
香水と香水が混じった化学臭や
皮膚から滲み出る人臭が
乱れ絡み合い
車内を充す

外気温との差で結露した車窓から
ぼんやりと見える灰色の街は輪郭がない

高架橋から見下ろすアスファルトとの距離感を失い
一瞬足が竦み
反対側の車窓へ視線を飛ばす

ほとんど景色は変わらない

アスファルト

濁った灰色の雲が生温い雨を降らし
微風が濡れたアスファルトの匂いを纏い
暗い街を流れる

傘も差さずに
アスファルトのひび割れから顔を覗く
名の知らぬ草をただ一転見つめる

記憶を辿って
駅前の信号の青や
滅多に使わないボールペンの青や
埃を被って学習机に置かれたままの地球儀の青を
見ても空の青さを思い出せない

哀しみと憎しみと

砂漠みたく渇いた哀しみを
熟れた林檎みたく瑞々しい憎しみが
背を摩り
頬を撫で
掌を包み
母が子をあやす様に癒す

渇いた哀しみが
水を得る毎に
少しずつ融けてゆく

癒す憎しみが
水を与える毎に
着実に輪郭を持ってゆく

哀しみが完全に融けて広がる海を
憎しみが鯨の様に泳ぐ

朝見上げれば

屋根の端から雨水が滴る

渡り鳥が飛行機雲をなぞる

二匹の瓢虫が薔薇の枯れ木に止まる

海風に似た湿度をまとった風が窓にぶつかる

寝起きの鈍い視線が初春の柔らかな陽光と交差する

昼寝

消化活動に勤しむ胃腸を労わるように
炬燵に目一杯足を伸ばして横たわる

足の爪から指
指から足の甲
甲から足首
足首から脛と脹脛へ
順序正しく血管を通り熱が巡る

熱の重みに耐え切れず瞼が落ちて
カーテンの隙間から垣間見えていた
晩冬の庭先の景色が途切れる

記憶の断片が糸で繋がるも
瞬く間に糸が切れて剥がれる

靄のかかった空に浮かぶ雲の上に
一輪の霞草が凛と佇む

自分の耳にも聞こえない声で

もっとみる

朝の最後尾

薄い布団の中で
鉛の様に重い身体を捩る

生暖かい陽光が襖の隙間から
一筋差し込む

眠い目を擦りながら窓を開けて
南東の空を仰ぐ

鈍い鳩の鳴き声

屋根の先端から滴る雨水

隣に見える梅の木

ごみ収集車が停まる音

珈琲の香

朝の最後尾になんとか合流する

春と待ち合わせ

春と待ち合わせ

冷めたお風呂くらいの生温い南風に背中を押され
濡れたアスファルトの臭いが溢れる小道を歩いてゆく

朧げな月明かりが雲の向こうでゆらゆら揺れ
幾つかの春の思い出が消えては蘇りまた消える

未だ蕾も付かない小さな桜の木の下で
一冊の詩集を唱えるようにゆっくり読む

春が来るまでの間