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ロマンティックMMT−27: マルクス-MMT⑨ 経済学批判2020への序説(5/n あなたは評価されていない!-ゲーテの色彩論)

 マルクス-MMTの九回目。

 ① 簡単!表券主義
 ② アンケート「資本主義って何ですか?」
 ③資本主義って何だろう
 ④資本論は救いの書?
 ⑤経済学批判2020への序説(1/n)
 ⑥経済学批判2020への序説(2/n ロマン主義の継承者)
 ⑦経済学批判2020への序説(3/n マルクスの弁証法=パスカルの怒り)
 ⑧経済学批判2020への序説(4/n 記号・論理・デジタルな価値)

 さて「資本論」第一部についてです。

 ここまでマルクスの先人としてノヴァーリスとライプニッツをご紹介しましたが、今回はゲーテです。

 ゲーテという人も世界史上トップクラスの芸術家のひとりですが、なんかゲーテ読んでいる人少ないですよね。とくに経済学マニアのあなた!\(^o^)/

 しかしロマン派つまりマルクスが尊敬して已まなかった偉大な一人がゲーテです。資本論第一部はいたるところにゲーテの表現の影が見て取れます。(たとえばメタモルフォーゼなどなど。。。)。

 そしてじぶんは思うのですが、もしMMT的な考えが主流になる日が来たら、そのときはゲーテやマルクスはすごく高く評価される時代になっているはず。

 なぜならそのときは、今社会にちゃんと扱われていない「あなた」や「わたし」がそんな状況を脱しているはず。

 そんな「正しく扱われていない人びと」「誤解されている人びと」「忘れられている人びと」をちゃんと扱わなければ人類は大変なことになるということを命を懸けて訴えたのがゲーテとマルクスの二人に他なりません。

文豪ゲーテの主著は「色彩論」

 マルクスの一番重要な仕事が「資本論」であることは自他ともに認めるところです。そのことは本人の手紙などの記述からも十分伺い知ることができます。

 では文豪ゲーテの代表作?となると、多くの読者は、生涯をかけて完成させた長編戯曲「ファウスト」ではないかと考えます。ところが当のゲーテ自身は自分の仕事で一番重要だと語っていたのは「色彩論」だったという有名な話があります。そう言えばゲーテは「もっと光を!」と最期に言って亡くなった人ですし。

 ただ、そのゲーテの意図が同時代にちゃんと理解されたかというとそういうわけではなく、盟友シラーですらその真価はわからなかったようで、シラーは「あんな研究に現を抜かしているのは実にもったいないことだ」と言ったとか。

 思うのですが、この話はマルクスが「資本論の仕上げは自分にしかできない(盟友エンゲルスにすら不可能)」と言っていたのと似ています。わからない人には本当にわからない。シラーやエンゲルスは生活に困ったことなどなかったのでしょう。

 今の言葉でいえばこれは「還元・分析思考」と「総合・発展思考」という思考の枠組みの違いと理解すると良いと思います。

リカード「経済学」の批判としての「資本論」

 ちょっと図にしてみました。

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 このように、ゲーテとニュートンの関係は、マルクスとリカード(経済学)との関係に内容も形式もそっくりです。   

 まず両者とも、「主流の思考」に対するプロテストつまり異議申し立てをしています。

 また彼らの言っていることって、「主流の考えでよくね?」と自分の枠組で世界を認識している人には、何を言っているのかはさっぱりわからないという構図ができてしまう。そういうところまで同じです。

 だから。

 もしニュートン派の人がゲーテを理解したいならば、それが根本的な批判であることを覚悟する必要があるのです。天動説の人が地動説を理解するときと同じです。そうでないと永遠に気づくことはないでしょう。

 さらに問題は、もう一つあります。こちらはこちらで、同じくらい厄介でして、それは…

「ゲーテが好きな人は科学に興味がない」、という問題

 困ったことにゲーテ好きの人は科学技術にもともと強い興味がないのです。彼らは始めから科学技術の発達と人間の疎外や環境破壊には対立があるに決まっていると知っています。だから「色彩論」を読んでも「ふんふん、そうだよねー」と思うだけで、そのことによって、ニュートン批判の「論理的な側面」を見落とすのです。

 まあ、知っている人にはどうでもいいことだからです。

 同じように、労働と資本に対立があることを知っている人はマルクスの経済学批判の「論理的な側面」を見落とすのです。「ふんふん、そうだよねー」と。

 そしてこの傾向は、時間が経てば経つほど拡大していきます。

 ゲーテの時代は知識人のほとんどは、ニュートンの「光学」を読んでおり、ゲーテの「色彩論」はこのことを前提として書かれています。
 同様に、マルクスの時代は知識人のほとんどはリカードの「経済学および課税の原理」を読んでおり、マルクスの「資本論」はこのことを前提として書かれています。だって「経済学批判」なのですから。

 ところが時代が進むと「経済学および課税の原理」を読んでから「資本論」を読む人はどんどん少なくなります。やがて経済学にはいわゆる「限界革命」が起こり、「リカードは古典派」ということになり、リカードを直接読む人はますます少なくなりました。

 ニュートン力学も「相対論的力学」さらには「量子力学」の発展によって今では「古典力学」と言われます。しかし「相対論的力学」や「量子力学」になったからと言ってゲーテの科学批判が価値を失ったということは全くありません。

 再度書きますが、これは「あなた」や「わたし」自身の問題です。今の日本の主流の経済学や主流の思想がぜんぜん「あなた」や「わたし」のためになっていません。ゲーテとマルクスはそのことを強調しているのです。

 わたくし‘nyun 一人でも多くの人に二人が考えていたことを伝えたい。それが知ってしまった犬に課せられた使命だと思うのですよね。

 それじゃあ、行きますよ!

「あらゆる色が混ざると白!」、なのか??

 ニュートンの光学は、アリストテレスの「色は白と黒の混じり合いから始まっている」という考え方をひっくり返して「白色光はあらゆる色の光が混ざったもの」としたものだったと言えます。

 これは言葉の入替えになっています。

 「白と黒→あらゆる色」が、「あらゆる色→白色」になったわけですね。

 本シリーズでずっと強調している「ことばの操作による発見法」を使います。このとき見落とされているものがありませんか?

 ニュートンの光学で見落とされるのは一つには「闇」であり、もう一つは「活き活きした現象」だというわけです。ゲーテの問題意識はニュートンの科学によって見落とされる「活き活きした認識」にあるのです。

 太陽が沈もうとし、濃い霞がかかり、かなり弱められた太陽の光が私の周りの世界をこの上なく美しい緋色でもって覆ったとき、影に見える色彩が緑に変わった。その鮮明さは海緑色に比べられ、その美しさはエメラルドに比べられる。その現象はよりいっそう生き生きとしだし、まるで妖精の国にいるかのようにまでなった。すべては、日が落ち、艶やかな現象が灰色の薄
暗がりへと、そして次第に月と星々の夜へと消えてゆくまで、この二つの鮮やかでとても美しく調和した色彩に彩られていたからだ。

 これはゲーテ自身がドイツの北部州での最高峰ブロッケン山を登ったときに体験した現象の描写。戯曲「ファウスト」では年に一度のヴァルプルギスの夜に魔女たちが山頂に集まって宴になると描写される、その山です。

 ゲーテがその眼で見たこの現象はニュートンの光学では決して説明できないものです。だからゲーテはこう主張します。「色彩は光だけでは成立しない。闇だけでも成立しない。色彩は、光と闇の両者が作用・闘争し合うところに生成するのではないか。」

 似たように、労働者階級の悲惨や不幸を肌感覚で知っているマルクスはこう主張します。「この経済はブルジョア視点で見えるものだけで成立しているのではない。この経済はブルジョアとプロレタリアが作用・闘争し合うことの上に成り立っているのではないか。」

真実は、芸術的にしか語れないという事情について

 シリーズの四回目でも書きましたが、マルクスはエンゲルスへの手紙で「資本論」が芸術的な一個の全体であることを強調しています。

 いかなる欠点を有しているにせよ私の著作の長所は芸術的な一個の全体であることにあり、それが達成できるのは、それが全体として出来上がるまでは絶対に印刷させないという方法によってのみです。

 上のゲーテの「色彩論」における色の描写を見て下さい。

 「光学」に対する「色彩論」が詩的な書き方になっているのを感じてほしいのですが、これは必然的にそうなるのです。というのは、分析的な思考によって抜け落ちるものがあることを指摘しようとすれば、抜け落ちていない全体を表現する必要があるからです。

 こここそが肝心なところです。「ダメなゲーテの説明」もあるからです。

 たとえばWikipediaでゲーテの色彩論を調べると、こんな「解説」が合ったりします。ゲーテは光のスペクトルとは違う「もう一つの闇のスペクトル」を考えた。

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 この説明は確かに間違いではありません。ゲーテは確かに闇のスペクトルを考えたのですから。

 しかし、大事なことは「闇のスペクトルによる説明」そのものではありません。

 肝心なのは「分析的な思考で語れないもの、置き去りになる大事なものがありますよ」ということの方です。究極の真実は芸術的・詩的に語るしかありません。マルクスが知っていてエンゲルスが知らなかったのはこのことではないかと思います。

「良いんだけれど、それだと大変なことになるよ」という論理

 そして総合だけでも足りません。そして分析が悪いわけでもありません。ゲーテのシュルツ宛の手紙の一節を紹介します。

 私は、それが私自身に注意を振り向けさせてくれたことを批判的、観念論的哲学に感謝しております。これは、途方もない収穫です。しかしこの哲学は、決して客観へ到りません。この客観を、我々は、これとの変わらぬ関係のもとでの生の喜びを味わうために、常識がするのと同じように認めざるを得ません。

 ゲーテは観念による分析的思考の力を認めている一方で、抜け落ちているものを重視する。ここで分析と総合の「両方」をやることが大事なのですね(このことはマルクスの「上向法」「下向法」に繋がっていきますがそれはまたいつか)。

 ゲーテやマルクスの、「それ良いんだけれど、抜け落ちると大変なことになるよ」という論理。これは「闇のスペクトル」が証明されるかとか、それが正しいかどうかよりも大事なことです。

 マルクスの提案した「共産主義社会」もそうなのでしょう。「共産主義社会」そのものの正しさよりも大事なのは、「このままでは大変なことになるよ」という論理の方ですから。

 ところが現代の人びとにはその大切な「論理」こそが伝わっていません。伝わらないメカニズムはこれまで書いたとおりです。

 だからわたしたちは、主流の思考から「活き活きとした生」がごっそり抜き落ちているという指摘を重く受け止めなければなりません。いつも「ああ言えばこう言う」だけの学者どもの言うことを、ありがたく聞いている場合ではないですよ!

「色彩論」と「哲学の貧困」の論理は同じ

 論理の話に戻りましょう。ここで何度も引用した若きマルクスの「哲学の貧困」とゲーテ「色彩論」を並べれは、両者の論理が同じであることはすぐにわかると思います。

 みんなのように、晴れているので大勢が散歩に出かけるという代わりに、プルードン氏は晴天であることを確かめることが可能になるよう、みんなを散歩に行かせるのである。(哲学の貧困) 

 ゲーテが見たブロッケン山では、光と闇の中から美しい色彩が確かに構成されていたのです。それなのに、ニュートンは、光があることを確かめるために、白は光が集まったものだという話に還元してしまうのです。

 白を分解したならば、光が集まっていることが観測されます。

 社会を分解してみたら、労働者が集まって労働していることが観測されます。

 説明が正しければそれでいいんですか?

黒と白から色が見える - ベンハムの独楽のこと

 ベンハムの独楽はご存知でしょうか?これが発見されたのはゲーテよりもだいぶ後なのでゲーテはベンハムの独楽を知りません。

 実に不思議で面白いのですが、白と黒の円盤を回転させると色が見えるんですよ!

ゲーテを知るとよくわかる「資本論」

 ここまでゲーテのニュートン批判の論理を説明してみましたが、伝わったですかね。。。

 ロマン主義とは、こうした「忘れられたもの」「間違って理解されているもの」を発見していこうという態度です。そして青年マルクスはロマン主義を「熱心に学ぶ詩人」でした。

 言えることは、もしあなたがゲーテのニュートン批判の論理を理解できないならば、マルクスの経済学批判が理解できる可能性は低い。

 逆に、ゲーテのニュートン批判が理解できれば、それはマルクスの経済学批判を理解する大きな手がかりになるということです。どうか、この図のイメージを掴んでください。もう一度。 

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 「資本論」はリカードの「経済学および課税の原理」に対する「ゲーテ的な」批判です。形式的にもゲーテの「色彩論」が、詩的でありながら「光学」の書式を踏まえているように、「資本論」もまた「経済学および課税の原理」を踏まえています。

 そこで「資本論」第一部におけるその代表的な個所として、今回と次回に渡って「Verwandlung von Mehrwert in Kapital(剰余価値の資本への変換)」という章を取り上げて徹底解説して行きます。

剰余価値の蓄積の記述

 ここはちょうど、前回説明した「ずんずん大きくなる雪だるま」的な話に相当します。

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 エンゲルスが監訳した英語版には、まさに「ボールが転がる(And so the ball rolls on.)」という表現があります。(ところがどうもドイツ語版ではこの一言は見当たりません。フランス語版で入ったのかもしれません)。

 こちらは英語版から↓

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 この英語版を日本語に翻訳公開されている人がおられるのを見つけました。かなり良い訳だと思いますし、当該箇所をリンクしておきましょう。ここの議論をまだ知らない人はちょっとで良いので覗いて見て下さい。

 いかがですか?

 現代の人はこの箇所をいきなり見せられたら「まどろっこしい議論だなー」と感じると思います。図もありません。

 この文章、賢い人は「ただの複利計算じゃないの?」と受け取ると思うんです。そう。確かにもっと「簡単に」書くことはできるのです。

 リカードの「経済学および課税の原理」では「利潤率」という概念を使って表現している話に相当します。

 その第六章「利潤について」では次のように書かれます。(青空文庫より)

 吾々はまた、土地に対する資本の蓄積と労賃の騰貴との結果、いかに資本の利潤率が減少しても、しかも利潤の総額は増加するであろうと、期待しなければならぬ。かくて、一〇〇、〇〇〇磅ポンドの蓄積が繰返されるたびに、利潤率は、二〇%から一九%に、一八%に、一七%にと、絶えず逓減する率で、下落すると仮定するならば、吾々は、かかる逐次の資本所有者が受取る利潤の全額は常に逓増して行き、すなわちそれは、資本が一〇〇、〇〇〇磅ポンドの時よりも二〇〇、〇〇〇磅ポンドの時の方がより大であり、三〇〇、〇〇〇磅ポンドの時は更により大である、等々、資本が増加するごとに、逓減的率においてではあるが、しかも増加して行くことと、期待しなければならぬ。しかしながら、この逓増は一定の期間だけ真実であるに過ぎぬ。かくて二〇〇、〇〇〇磅ポンドに対する一九%は、一〇〇、〇〇〇磅ポンドに対する一九%よりもより大である。しかし資本が多額にまで蓄積され、そして利潤が下落して後はより以上の蓄積は利潤の総額を減少する。かくて…

 マルクスもリカードも、資本が雪だるま式に拡大していく様子を描写しています。この複利の雪だるま感覚は両者の重要なモチーフです。

 しかし表現方法が違う。そのことこそが核心。ここです!

 それはもう、根本的に違うのです。

 どのように??

 それは次回書きましょう\(^o^)/

 それはそれとして、その前に言語の問題についてひとことだけ。

言葉の問題:「変わる」ではなく「変えている」です!

 この「Verwandlung von Mehrwert in Kapital」という章タイトルは英語版だと 「Conversion of Surplus-Value into Capital」です。

 日本語訳は、しばしば「剰余価値の資本への転化」と翻訳されています。

 しかしです!

 こうした翻訳によって重要なニュンアンスが「置き去りにされる」と感じられてなりません。

 だいたい「転化」という言葉、なんか大げさと思いませんか??

 そう、そんな翻訳は大げさです。

 だってドイツ語感覚では、ぜんぜんそうではないのです。

 日本語はしばしば主語が消える動詞中心の言語なので、ドイツ語や英語を日本語に直訳するとしばしば「主語が大げさ」な感じになってしまう。それだけのことで、ここは「剰余価値が資本に変えられる」でいいくらい。

 大事なニュアンスは「変わる」でなくて「変える」であること!

 カギは ver の三文字なのです。

 「自然に変わる」というときの動詞は wandeln なのですが、これを「意図的に変える」にしたいときは verという三文字を付けて verwandeln という感じになります。

 この ver の三文字ってのは、自動詞など(「自然に」「勝手に」そうなっているニュアンスの言葉)の前にくっつけて「目的を持った」「意図的な」他動詞を作るための前綴り(まえつづり)なんですね。日常語です。

 数学で式を「変形する」の「変形」も Verwandlung です。「2+3」を「3+2」に変えるような変形。これって「主語と述語の入れ替え」みたいなもので、日本語の「転化」という感じではないのです。。。

 これは笑い話では済みません。

 だって、主流の学問はいまだに「人びとは労働条件に満足している」という嘘の上に成立しているからです。マルクスの時代とまったく同じです。

 みなさんも知っての通り、悪しき市場原理主義は今も生きていて、それがMMT的な政策の実現を阻んでいます。そして、こうした市場主義の理屈はリカードでほぼ完成していて、現代の新自由主義者の理屈は本質的に、リカードとほとんど違いません。

 リカード読むとムカつきますよ(-"-)

政府の介入と社会保障を嫌うリカードの論理

 たとえばリカードはこの本の中でも当時の福祉政策である救貧法を徹底的に批判しているのですが、今の市場原理主義者や経済学者とそっくり!

 せっかくなので、その箇所を引用して今回のエントリを結びといたします。

 (四〇)金のある附加量を外国から購買するためには、内国の貨物が高価でなく低廉でなければならぬ。金の輸入と、それで金が購買されまたは支払われるあらゆる国産貨物の価格騰貴とは、絶対的に両立し得ない二結果である。紙幣の広汎なる使用もこの問題を変更しはしない。けだし、紙幣は金の価値に一致するかまたは一致すべきであり、従ってこの価値はこの金属の価値に影響する原因によっての影響されるからである。
 しからばかかるものが、労賃を左右し、かつあらゆる社会の最大部分の幸福を支配する所の、法則である。あらゆる他の契約と同様に、労賃は市場の公正なかつ自由な競争に委ねられるべく、決して立法の干渉によって支配されてはならない。
 (四一)救貧法の明白かつ直接的な傾向は、かかる明白な諸原理に全く反するものである。それは、立法者が慈悲深くも意図したが如くに、貧民の境遇を改善すべきものではなくして、それは富者と貧者との双方の境遇を悪化せしむべきものである。貧民を富ましめることはなくしえ、それは富者を貧しくせんとするものである。そして現在の法律の施行中は、貧民を維持するための基金は逓増的に増加して、ついにそれは国の総収入のすべてを、または少なくとも公共の支出に対する国家自身の欠くべからざる必要を満たした後に国家が吾々に残す純収入のすべてを、吸収するのは、全く事理の当然である。

 救貧法の範囲を漸次に縮小することによって、貧民に独立なる者の価値を印象づけることによって、彼らに、生活のためには組織的のまたは偶然の慈善に頼らずに彼ら自身の努力に頼らねばならぬこと、また慎慮と先見とは不必要な徳性でもなければ不利益な徳性でもないことを、教えることによって、吾々は順次により健全なより健康的な状態に接近するであろう。

 かかる法律が、富と力とを貧と弱に変え、労働の努力を単なる生活資料供給の目的以外のあらゆる目的から引離し、すべての知的優越を無にし、精神を絶えず肉体的欲求物の供給に忙殺せしめ、ついに一切の階級を一般的貧困という悪疫にかからせる、という傾向のあることは、重力の原理と同様に確実である。

つづく

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ゲーテ・マルクス・MMT① 導きの糸、二元論


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