ロマンティックMMT−28: ゲーテ・マルクス・MMT① 導きの糸、二元論
こんにちは。
予定では「経済学批判2020への序説」の六回目で、資本論とMMTの論理解説を…と思っていたのですが、実は最近ゲーテの色彩論を初めて通読し、お大きな衝撃を受けたのです。
先にこの話をできるだけ多くの人と共有したくなりました。そして、そのほうが良いはずです。
とう言うのも、資本論を後回しにしたとしても、ゲーテを正しく理解することこそがマルクス理解に直結しますし、もっと言えば、ゲーテの理解なくしてマルクスの理解はできるはずがないとすら今は考えているのです。これがわかると、ゲーテにしっかり触れない日本語の書籍や大学教師や博士号を持った研究者が教えるマルクスなど、その一切が馬鹿馬鹿しく見えてくるはずなのです。
これって口が悪いと思いますか?
ゲーテの正当な罵詈雑言
でも、わたくし nyun の口が悪いとすれば、それはゲーテ譲りであり、マルクス譲りなのですよ。彼らほどではありません。
なにしろゲーテの色彩論こそは、その相当部分が主流の学問の攻撃です。ゲーテですから、それはもちろん攻撃それ自体が目的なはずがありません。そうではなく、本来人間を愛し知を愛するための学問がそうなっていないことへの怒りを表明しているのです。
わかる。。。
わたくし nyun も、経済学というバカ学問に何年も騙されてきましたから。
ゲーテの色彩論とMMT
まあ、まず図を見て下さい。
左は、いわゆるゲーテの「色相環」。
そして右は、わたしが「JGP[職業保証制度]を図にしてみる(JGPの話3)」という記事でJGPを説明するために考案した図です。
似ています\(^o^)/
右の図で言いたかったことは、次に述べる経済学の二つのおかしさでした。
一つは図の白い部分で、社会に包摂されている老人や子どもや障害者の見落としです。「生産性」に貢献しない戦力外の人びとの扱いがひどすぎる。
もう一つがピンクです。ここは雇用を望みながら満足な雇用機会が得られていない膨大な人たちです。
経済学者は公的雇用(公的事業)と民間雇用(民間事業)の話に終始して、失業者(働く意志がありながら雇用されていない人びと)の扱いがひどすぎます。彼ら全員を雇用しない理由はあるのか?という、指摘です。
主流経済学は「白」と「ピンク」をなぜか見落としているのです。
光の主流理論
では、光です。
このような図を見たことがあると思います。
これは光を電磁波として捉えて、波長が長い順に並べた図ということになっています(「波長」でなく「屈折率」でも同じです)。
実験的にプリズムを使うと太陽光を七色に分割できますが、それは光の色によって「屈折率」が異るからとされています。
この理論を確立したのがアイザック・ニュートン(1642-1727)であり、1704年に出版された「光学」がその集大成でした。
あとで触れますがニュートン自身、この本については一字一句の加筆も望まず、ラテン語への翻訳も彼自身が眼を通したそうです。
その45年後の1749年に生まれたゲーテの時代には、この理論はすっかり基礎理論として認知されていて、主流理論の地位を不動のものにしていたのです。
さまざまな説明方法がそこから生まれたことをゲーテは図にまとめていたりします。
これから説明したいことは、この「光学」の誤謬です。MMTやマルクスの主流批判と話の構造が全くと言っていいほど似ているからです。
ゲーテはこの誰もが常識と考えていた主流の理論を根本的に、また徹底的に批判しています。「色彩論」とは、その批判と、ニュートンとは全く異る色の理論を本にまとめ上げ、しかもギリシャ以降の色彩理論の歴史を徹底的に調べ上げた大作なのです。
(分量としては最後の「歴史編」が全体の半分を占め、これは今で言う科学論の先駆けでしょう。その内容の質は、T・クーンの「科学革命の構造」など目ではありません。個人的にこれに匹敵するのは、たとえば山本義隆の作品群。「熱学思想の史的展開」が感じとして近いです。)
それなのにその真価に気付いている人は多くありません。それどころか「ニュートンに軍配があがった」「ゲーテが間違っている」「せいぜい代替理論(オルタナティブ)か補完理論にすぎない」という評価を下す人がほとんどであり、トンデモ呼ばわりする向きもあるほどです。
でもちょっと待ってください。
補完理論というより代替理論だという主張
こうした状況も含めて、色彩論の扱いは今のMMTやマルクスの資本論とそっくりです!
わたくし nyun の見解では、MMTも資本論もゲーテの色彩論も、人類のより良い将来につながる理論だととしか思えません。そしてどれも主流学派への対抗理論、補完理論ではなく「上位互換理論」という形をしています。
対抗理論、補完理論と考える人は次のようなイメージです。新しいことを言っているけれど、いずれは一つにまとまる…
ところがMMT・マルクス・ゲーテが言っているのはそうではないのです。
ちがいます。
そうではなく、彼らは理論を置き換えなければいけないと主張するのですね。ゲーテはこう書きます。
これはマルクスがアダム・スミスやセイやリカードに向けた言葉と似ています。彼らの理論は現実と離れた詭弁が主流理論として流通することがあるのです。
このくらいにしておきましょう。
とにかく、MMTがそんなくだらない学説に取り込まれる必要はまったくないのです。それは既に詭弁と欠落に満ちていて「何でも言える」レトリックでしかないからです。
だから、こうです!
というわけで。
MMTと、マルクスの経済学批判と、ゲーテの色彩論は同じ形をしています。前回のエントリでは、この表で指摘しました。
しかし、これらの理論は「わかるまではわかりにくい」という共通点を持っています。それはわたしたちが知らず知らず主流理論の教育を受けて来たという歴史があるためです。
ごく一部の人以外は、主流とは別の見方をすると言われてもそのやり方がわかるはずがないのです。
ゲーテの得意技、「導きの糸」
このようなときに、導きの糸を探すことです。「導きの糸」といえばゲーテの代名詞の一つです。
この世界は縦糸と横糸の複雑な織物です。そんな世界を理解したいときの、一番いい方法は導きの糸を探すこと。何の方針もなしに世界をバラバラに観察したところで本当のことがわかるわけがないわけです。歴史という織物を拷問にかけたところで自白してくれるというものではありません。
糸を探さなければなりません。
ゲーテにとってこの世界は小説でも自然でもそのあたりは同じです。
晩年の「親和力」という小説を紹介しましょう。
オティーリアという重要な登場人物は、既婚者と恋に落ちるのですが,その恋人と自分の恩人であるその妻との間に生まれた子供を死なせてしまいます。そしてその罪の意識から絶食により若くして命を絶つのです。このかんの登場人物の心理状態は直接描写されません。その一連の自体における心の動きは、残されたオティーリアの日記から読者に想像させようという仕掛けになっています。
ゲーテは読者にその糸をたぐれと命じているわけですね。
「動物学の諸原理」から
このように、ゲーテの読者は著作から「導きの糸」という考え方を叩き込まれてしまうのです。
別エントリで紹介したマルクスに大きな与えたはずのノヴァーリスもまたゲーテに理想を見た一人ですが、こんな断章があります。
マルクスの「導きの糸」も有名です。『経済学批判』の序言のこの部分ですね。
この最後のパラグラフはあまりにも有名で、マルクス研究者は「導きの糸」という言葉からゲーテでなく、マルクスのこの箇所を思いかべる人が多いようです。
この有名な「人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、逆に彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである。」という考えも、その原型はノヴァーリスやゲーテに見出すことができます。
ノヴァーリスならば、別でご紹介した宗教の儀礼性についてですが、ゲーテならば、上の小説「親和力」もそうです。
『親和力』にみられる、自由と支配的イデオロギーの葛藤
親和力には悪人は登場しません。
エドアルトとシャルロッテという熟年の夫婦を中心とした四人の男女が自然に惹かれ合うことになった結果、道徳や秩序という社会的枠組みと衝突し葛藤する物語。
そこから、きわめて重要なシーンを一つ。
情熱の人エドアルトが趣味のフルートを吹くとき、理性の人である妻シャルロッテのピアノ伴奏は巧みに演奏をコントロールします。このときエドアルドの主導権は「自由」でなく「秩序」にあるのです。
対して感性の人であるオティーリアはその演奏を数度聞いただけで、エドアルトがどう演奏したいかを感じとりそれを覚えてしまうのです。
そしてエドアルドは、オティーリアの伴奏によって初めて、それまでのシャルロッテの伴奏では経験したことがなかった、二つの心が響き合い一つに溶け合う体験をするのです。
気づくまではわからない。でも、気づいてしまえば世界が変わる。
そういうものですよね。ある学問が詭弁であるということも「気づく」か「気づかない」かにかかっています。
ゲーテが色彩を研究したきかっけ
色彩論の末尾に置かれる「著者の告白」には、ゲーテが色彩の科学に目覚めた瞬間のエピソードが書かれています。
当時プリズムは貴族の高価な「おもちゃ」だったのですが、ゲーテは友人から借りっぱなしにしていたそうで。
さて、ここでゲーテは何に驚いていますか?何かすごいものをみたのでしょうか?
そうではなく「白い壁が白いままであった」からですね。
その直後、ごくわずかな、暗い部分と接するところに鮮明な色彩を発見したのです。ここから始まった色彩論は、ニュートン光学より遥かに広大な知見をもたらすことになります。
色彩論の光景
ここでもう一度、上の主流スペクトルに対比させてみましょう。
こう思ったことはありませんか?
「白」や「ピンク」は?
そうなんですよね。ないのです。
ニュートン光学は、文字通り「白」と「ピンク」を見落としているのです。
ルンゲの色球
画家フィリップ・オットー・ルンゲ(1777−1810)はゲーテの色彩論に関心を持ち、色彩球を完成させます。
この色彩球にはピンクが見えますね。人間の感覚からすれば紫と赤の間に赤紫があり、その系列にピンクがあることはごく自然にわかります。
図で表すと、白く囲った部分です。
ちなみに、このルンゲという若くして亡くなった画家も哲学史の中で重要で、のちに哲学者ヴィトゲンシュタインもルンゲの書簡に啓発されて「白は最も明るい色」「透明な白はあり得ない」「赤い緑はありえない」といった思索を巡らすことになります。
ゲーテによる「主流理論」批判を図にしてみる
では、いったいゲーテが主流理論をした内容の核心部分を紹介したいと思います。
ここがポイントであり、現代の役立たずのガクモンにも通用する話です。それは物理学や経済学に止まらない現代文明批判だと nyun は思います。どっちもどっちではありません。
ではやってみましょう。
こういう図は今でも見かけませんか?音階との対比はともかくとして、根本的におかしいのです。よかったら少し考えてみてください。
もしいまゲーテがこの図を見たら、人類の進歩の無さに呆れると思うんですよ。あら探しをしようとしたら、いくらでもできますね。
音階に結びつけていること以外にすぐに気づくのは、「線引き」が恣意的であること。青という名前を付けて区切り線を引いているわけです。
でも、それだと緑と青の中間色はどうなるの?
もう少し考えてみて下さい。
…
…
よろしいでしょうか?
ゲーテはこの主流論理を次の言葉で切って捨てます。
「導きの糸」からの真理を探し求めるゲーテが怒るのも無理ないくらいひどいものです。
なぜなら七色のスペクトルは「自然を拷問にかける」ほどの、かなり限定された条件でしか出現しないのですから!
論理としては、下の図のような話です。
小学校の理科教室などで、これを試してみたことがある読者の方も多いのではないでしょうか?
キレイに七色を見ようと思ったら、カーテンで日光を遮ったり、教室の天井に映すなど、かなり人工的な条件が揃っていたと思います。しかも理科の先生はあらかじめ何度か練習していると思います。
実際は、別の像が出ます。それをゲーテはちゃんと記録しているんですね。
ゲーテによる正しい「光のスペクトル」
ニュートンは、いったいどうしてこのように描かないか?というゲーテのスペクトル図はこのような感じです。
こういうものをちゃんと作った人にとって、ニュートンのスペクトルがどれほどくだらなく見えるかわかるでしょうか。
しかも。
これはまだピンクと白がないことになっています。ゲーテは、光のスペクトルに対応する闇のスペクトルを描いているのです。
もう一つのスペクトル
上の図に対応させる形で再現してみましょう。
すごいと思いませんか!?\(^o^)/
適切に実験を設計し、導きの糸を発見し、あとは事実を素直に解きほぐして行きさえすれば、努力と論理の力によって人間は、この二つのスペクトルという地平に辿り着けるのです。
あまりに美しい人類の宝の一つです。
以上のように、ゲーテは光と闇の「二元論」からスタートして、多様なデータを自分の手で集めた結果、壮大な理論を構築します。
対して、ニュートンの光学は恣意的な特殊データからまったく事実とは異る「頭の中の作りもの」でしかありません。
主流の学者はそんなものを後生大事に「発展」させていた/いるのです。
おっと、悪口は言葉の魔術師ゲーテに語ってもらいましょう。
ゲーテの痛烈な一元論批判
論争編の序論から引用していきましょう。
そして序論の締めくくりの前段はこうです。
二元論を隠蔽する一元論という批判(「資本論」と共通)
シビれますね、ここ。
「単一性のなかにあらかじめ多様性を縫いこんでおいて、そこから多様性を取り出そうとしているにすぎない」!
ゲーテの理論では色彩とは光と闇の闘争ないし和合の産物です。たとえば屈折率などという単純な一元論でなく、二元論だということです。
マルクスの資本論第一部と比較します。資本論は「剰余価値への転化」の章に代表されるように、主流の理論であるリカードの資本蓄積の理論が「利益率」というアドホックな数字をあらかじめ想定したものであることを批判するのです。そして、剰余価値の真相は「労働者」と「資本」の闘争という二元論として見るべきだというストーリーになっています。
そっくりなんですよ。
この note ではおなじみの「哲学の貧困」のこれもそうです。
ゲーテの文章に戻りましょう。序論の締めくくり。
ニュートン「虚偽を真実とし、真実を虚偽とするために彼がおこなっている仕事ぶり」を明らかにした次の図の実験は象徴的です。ゲーテはピンクが報告されていないニュートンの条件(光のスペクトル)に条件を加えてみせることでピンクを出現させます。
三通りですよ!
二つのスペクトルと「補色」
というわけで、主流のこちらの図を再掲しますが。。。
これはスペクトルの片側でした。
本来これはこうでなければいけません。
ゲーテに敬意を評して、ご本人の図も。
なお、上は下の図の一部を拡大変形したもの。
ついでながら、上の図左下の風景は「青が見えない人」には風景がこのように見えるだろうという図です。そういうことまでやっている。
また、二つのスペクトルの色は「補色同士」の関係にあることもゲーテは突き止めているのです。
でも「補色」って何でしょう?
呼び合う色、補色の不思議!
ではゲーテはどのように補色を発見したのでしょうか。
いや、そもそも補色とはいったい何でしょう?
(ここで「いやいやその前に「色」とはいったい何?」という疑問を持つ人がおられると思います。ごもっとも。その話は次回です!)
ピンクと緑でやってみましょう。
下の図の緑をじっと15秒くらい見つめてから、直後に上の白い丸を見つめてみてください。そうすると真ん中にピンクが、外側に緑が現れると思います。
不思議ですよね。
その色を呼んだのは誰かの意志ではありません。何かに導かれているわけです。緑の丸を見るという行為に呼応して、補色と言われているものが呼ばれるのです。
「オティーリアとエドアルト」「シャルロッテと大尉」
「親和力」の上記のシーン、オティーリアとエドアルトは演奏という「行為」によって互いの特性と愛を理解するわけですが、それを聴いているシャルロッテと大尉にも微妙な気持ちが芽生えていくのです。
「オティーリアとエドアルト」そして「シャルロッテと大尉」という二組の心には演奏という行為によって、色で言えばちょうど補色のような現象が起こっています。
上の絵で緑の丸を凝視するという「行為」によってピンクの丸が呼び起こされるのと同じです。しかし結婚しているのはエドアルトとシャルロッテ。
人生とはこういうものですねえ。。。
わたしたちの「愛(Liebe)」も「苦悩(Leiden)」も、それぞれの「行為(Taten)」によって意志とは別に導かれるものなのです。
これが「自然」ということになるのですが、親和力の四人はその自然が結婚制度に基づく社会秩序と衝突します。つまり意識というものは、社会的構築物によって「も」規定されている。
「論争編」の序文の、今度は冒頭のゲーテの意気込みをご紹介したいと思います。
研究の「導きの糸」(Leitfaden)
「虚構の構築物」をあばく論理
マルクスの読者ならば、上に続く以下の個所がマルクスのイデオロギー論および「上行法下行法」という考え方の原型であることに気づくでしょう。
引用を続けます。
なお「四大」とは、理性・悟性・感性・想像力の四つのことで、カントに始まるドイツ観念論哲学の重要概念で、これら四つのバランスが大切とされます。ゲーテの書斎にはこの四大を表す正四面体が置かれていたそうで、下はその写真です(「色彩論」の図版集より引用)。
色彩、補色は「生命の永遠の公式」の発現
補色の話に戻りましょう。
色彩を知るためには補色現象を捉える必要があるのです。こうした法則を持った不思議な現象こそが導きの糸だからです。
緑を見るから反対側のピンクが現れ、ピンクを見るから反対側の緑が現れる。
次回説明しますが、実は白(明)と黒(暗)でも同じです。
ここで、マルクスの「経済学・哲学草稿」から。
自然が人間社会の縦糸ならば、制度(結婚制度や資本制度)が横糸となり、そのはざまで愛したり苦悩するのがわたしたち人間だ、というわけです。(マルクスはこの概念をフォイエルバッハから受け継いでいるというバカ学者がいたようですが、そのはるか前にこれはゲーテの文脈ですので!)
光学批判、経済学批判
もしあなたがマルクスの読者ならば、ゲーテの思想がその原型になっていることは以上の記述でもう明らかだと思います。
マルクスはゲーテに倣い、常に人間や概念や事物の「本質」「原型」から議論を出発し、科学においては実に合理的、論理的な理論を展開します。そして、学問がそうなっていないときに容赦のない反論を行います。
何度も恐縮ですが、経済学もこの note ではおなじみの「哲学の貧困」で指摘された「みんなを散歩に行かせる」という現実離れした議論を最初に受け入れさえすれば、何でも言えるわけです。
資本は貨幣の行為であり、受苦である
次回予告です。
ゲーテが「色彩は光の行為であり、受苦である」としたわけですが、次回説明するその論理を理解すると、マルクスとMMTも同じように「資本は貨幣の行為であり、受苦である」と理解することができます。
光が作用するとかならずその反対物である補色が生みだされるように、誰かが利潤・貨幣を得たならば、必ず「その反対の状態」はひそかに生みだされているのです。
お楽しみに!
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