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ロマンティックMMT−23: マルクス-MMT⑤ 経済学批判2020への序説(1/n)

マルクス-MMTの五回目、バックナンバーはこちら。

 ① 簡単!表券主義
 ② アンケート「資本主義って何ですか?」
 ③資本主義って何だろう
 ④資本論は救いの書?

いよいよ真剣に、本論(の序説)です! 

MMT創始者の一人ビル・ミッチェルの言葉 

 MMTの創始者の一人ビル・ミッチェル先生とお会いしたのは、2019年の11月3日京都。

 夕食のとき、優しい笑顔でこう言いました。

 「MMTのオリジンはマルクスだよ」

 続けて「自分はマルキストだよ」とも言いました。聞き間違いかと思って隣のうさぎさんに「いまなんて言ってたの?」と確認した記憶があります。

 ミッチェルは自分から見てそのまた隣の右側に座っていたのですが、じぶんの左側には、現在れいわ新撰組の立候補予定者である大石あきこさんがおられました。

 やはりマルキストを自認されている大石さんは、ミッチェルのこの言葉を理解するやいなや、「イエーイ」という発声とともにミッチェルの方向に身を乗り出し、掌をミッチェルに向けつつ右手を伸ばしたのです。するとミッチェルはこれに呼応して、自分からみて右側からやはり右手を伸ばし、

 ぱちんとハイタッチ。
 「イエーイ」

 目の前で展開されたこの光景が、自分に革命を起こすことになりました。

 大石さんの向こう側にはマルクス経済学者の松尾匡さんがおられました。この会は、翌11月4日に「ビル・ミッチェル教授セミナー(松尾さんが主導する薔薇マークキャンペーンの企画)」が予定されていて、そのために京都入りしていたミッチェル夫妻と食事でも…となった流れの中で行われたもので、なぜか自分も紛れ込んでいたというわけです(上のリンクにはその夜のスナップ写真が載っていますね。ちょっと懐かしい)。

https://rosemark.jp/wp-content/uploads/2019/11/IMG_3654-300x300.jpeg

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 自分がマルクスを読み始めたのはその数ヶ月前でしたから、もうちょうど約一年前ですか。

 そのときまでにMMTの概要はだいたい理解したつもりになっていたので、マルクスという、自分にとって新しい分野に踏み込み始めていた頃ですね。

 その目の前でのハイタッチにちょっと感激した自分は、それ以降はますます本格的にマルクスを読むようになったというわけです。

 いつの間にか、夢中になりました。ドイツ語が読めるからだけではありません。たまたまなのですが、自分の人生の主要な領域の一つがドイツロマン派と言われる18世紀ごろの芸術・哲学運動で、だから寝ても覚めてもその時代のことを考えている犬なわけですが、読みはじめてすぐ気づくのがマルクスってドイツロマン派哲学・文学の継承者じゃん!ということだったのです。

 むしろ自分が今までマルクスを読んでいなかったことが異常なんですよ。

 無意識にマルクスを避けてきたのは、たぶん中学生くらいの頃に誰かに「マルクスは唯物論だ」という話を聞かされてしまったせいだと思います。ロマン派の連中っていうは、いつも愛・美・永遠といったことばかり考えていて、物の方は鉱物などの自然物はともかく、人工物に興味が湧かない動物なのですね。

 そして今思うとこれが幸いなことだったのです。かつて日本でマルクスに取り組んだ人で、こんな奇妙な「順番」でマルクスを読み始める動物がいたでしょうか?

 経済学批判2020への序説を始めたいと思います。マルクスの未完の「経済学批判要綱「グルントリッセ」(Grundrisse)の序説、Einleitungからタイトルを拝借しています。Einleitungとはイントロ、のこと。

 さて。

 これからじぶんはマルクスに倣って経済学批判を書きたいのです。

 いや「倣って」ではないですね。そうではなく、150年経っても理解されないマルクスの経済学批判をMMTというレンズで蘇らせる必要があると考えています。

 そのキーワードがほしいですね。それは「順番」「本質」「発展」の三つを選んでいるのですが、まずはここで「順番」の話をします。

マルクスを読む順番が「逆」ということは…

 日本人で、マルクスの書いたものに取り組もうという人は、たぶん全員が「資本論」か「共産党宣言」が最初で、しかもそれで終わるパターンが多くないですか?

 そしてそもそもマルクスの書いたものに取り組もうという人の動機って「共産主義や左派運動に興味があるから」だったはずです。

 そう思うと自分はかなり特殊です。

 文学研究ではこういうことはありえなくて、初期の著作から順番に、時代背景を考慮しながら読み進むわけですね。その時代の読者や著者のつもりになって読む。当時どんな本が流行っていたとか。

 そうしたら、いつのまにか経済学でなく哲学や文学的な意味で、夢中になってしまいまして、、、とにかくマルクスは人類の知における恐ろしい巨人だったことを理解しました。

 本シリーズでは「目線」を強調していますが、それで表すとこんなイメージ。

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 つまりこういうことでして。

・マルクスへの先入観が皆無
・当時の背景をけっこう知っている
・特にドイツ観念論、欧州文化をそこそこ知っている 
・マルクスが書いたものを順番に読む
・MMTも知っている

 いつまでもこういう勝手な読み方をする「プロ」連中とは根本的に違うと思うよ!いうことなんです(もちろんアマチュアの人ならそんなの当然のことです。初めは誰もが初心者なわけで!)

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MMTはマルクスにつながる

 そしてわかったのですが、マルクスとMMTとは人間観という深いところでつながっています。人間や人間社会をどのように見るかというというところが、ほとんど同じ形をしています。

 貨幣観だと、マルクスとMMTはどちらも貨幣を即物的に把握します。

 MMTの真の創始者モズラーという人は、ある意味「小型マルクス」という感じです。彼が1995年に書いた ”Soft Currency Economics” という文章は、マルクスの資本論とそっくりとだと思うんですよ。

 ここでのモズラーは、ちょうどマルクスが資本論が「商品」というやたら細かい話を延々と分析してみせたのと同じように、政府と中央銀行のオペレーションを詳細に分析することで、貨幣の本質をえぐりとってみせているのです。そしてJGPという答えに到達している!

 通貨というものは貨幣の一種であり、本質的に「数字」である。民間の個人や法人にとってそれは「純金融資産の残高」で、ある数字を下回ることが許されない数字。
 そしてその唯一の供給者は政府だという話です。

 政府が増やしたり減らしたりする数字が通貨であり、通貨を頂点にしたヒエラルキーを構成するのが貨幣という、人々の社会的な関係を表現する数字だと。

 一方、マルクスの資本論は金本位制で書かれています。よって貨幣ヒエラルキーの頂点は金(ゴールド)であるのが前提になっている。
 そしてマルクスはあきらかに貨幣が数字であることを理解していて、こんな文が出てきます。

商品の番人なら誰でも知っているように、彼が自分の商品の価値に価格という形態もしくは心に描かれた金(ゴールド)の形態を与える時点で、彼はまだその商品を金(ゴールド)にしたわけではないし、また彼は、どれだけ多くの商品の価値を金(ゴールド)で評価する場合でも,現実の金(ゴールド)は一片も必要とはしない。したがって、貨幣は、その価値尺度機能においては、単に心に描かれただけの、つまり観念的な貨幣として役立っているのである。

 但し、こう続く。

この事情は、馬鹿げた理論が現れるきっかけになった。価値尺度機能のためには、ただ心に描かれただけの貨幣が役に立つとはいえ、価格は実在の貨幣材料によって定まっているのである。

 現代のわたしたちは、金本位制ではない世界の住民として資本論を読み替えればよい。

 そうするとMMTはマルクス思想という巨人の肩に乗って、明るい未来がみえて来るのです\(^o^)/

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 この図のイメージが、自分がミッチェルから受け取ったものから辿りついた地平になります。

マルクス読みには外せない、ヘーゲル思想の理解

 但し、マルクスの前にはヘーゲルという巨大な哲学者がいて、マルクスの思想はヘーゲルから大変な影響を受けているのです。だからヘーゲルの思想を知らないということは、マルクスを少なくとも「論理的には」理解できるはずがないんです。

 その事情と内容の概略をお伝えしたい。 

 マルクスはヘーゲル主義者だったのですが、苦労に苦労した末にヘーゲルを乗り越え、その方法で経済学者を批判し、未来というものはどのように見ればよいのかを読者に教えてくれました。

 ヘーゲルの方法では人間はいつまでも将来を予測することは「できない」ということをマルクスは発見したのです。マルクスはこのことを「ヘーゲル哲学は頭で立っている」と表現しています。

ヘーゲル哲学は頭で立っている

 ドイツ語で「auf den Kopf gestellt」という表現で、この図の状態。

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 英語だと不思議の国のアリスの話があたり topsy-turvy (あべこべ、ですかね?)というような洒落た言葉があるのですが、ドイツ人はこれだから。。。

 で、これがヘーゲルの説明する世界史です(イメージですからね!)

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 マルクスは、なんとこの図を「役に立たない!」と言ってひっくり返してしまいます。

 そして、ヘーゲル哲学が役に立たないのと同じように、経済学も役に立たないからオレがやり直すぞ!というのが資本論なんですね。

経済学「も」転倒している

 マルクスが発見したのはヘーゲルの転倒であり、経済学者も同じ転倒状態にあるじゃん!ということでした。

 実は「頭で立っている」じゃないかと言ったのです。

 だからこんな感じです。

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 ここでも順番が大事です。ヘーゲル批判→経済学批判という順番。

 1841年(23歳)学位獲得(哲学)
 1842年(24歳)「ライン新聞」主筆として活躍
 1843年(25歳)「ヘーゲル国法学批判」。政府を批判、検閲、結婚、亡命
 1844年(26歳)「ヘーゲル法哲学批判・序説」「経済学哲学草稿
 1846年(28歳)「ドイツ・イデオロギー」他
 1849年(31歳)革命に敗れ、パリを経てロンドンに移住

 1857−8(39−40歳) 経済学批判要項(未完)
 1859年(41歳)「経済学批判 第一分冊」

 1867年(49歳)「資本論 初版」

 1873年(55歳)「資本論 第二版」

 そしてこれは前回書いたのですが、この資本論第二版のあとがきにおいて「この本はヘーゲルをひっくり返した方法を採用しましたよ」と種明かしをしたというのが、ことの経緯です。 「ドイツの哲学者」は特に資本論を理解しないものだから、わざわざ改定を行い、あとがきで種明かしをしたという流れ。

 というわけで、わたしたちもヘーゲル批判をちゃんと理解してから資本論に取り組んだ方が良いのです。マルクスはたんに「ヘーゲルから影響を受けた」どころではなくて、ヘーゲルの論理の転倒を正しく構成し直して、その方法を歴史そして経済学に適用しているのですね。それもすごく厳格な論理で。

資本論とヘーゲル「論理学」

 これも前回書きましたが、資本論第一部とは掛け値なしの芸術です。そして形式はヘーゲルの「小論理学」という本を完全に踏襲しているのですね。

 雰囲気を出すために並べてみましょう。

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 タイトルはともかく、この論理学の中身まではここで説明するわけには行かないのですが、せめて図がほしい…いまちょっとググりまして。

 こんな話なんですよね。図の引用元はこちら

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 「論理」と「歴史」、そして「科学」の話。このきわめて論理的な話に当時の知識人は熱中していたのです。ヘーゲルやマルクスの時代は市民革命、産業革命の時代だということを念頭に置きましょう。

 ポイントは、論理的には完璧で間違いが見つからない。マルクスが「転倒している」と喝破したのは、このガチガチの「正しい」体系だったということなんです。

 そして、資本論の冒頭ってなんか難しい。多くの人が挫折する理由は、マルクスがこの論理学という本の形式をそのまま踏襲しているからです。ヘーゲルの「論理学」を知っていれば必ず気づくからです。

 この対応関係について、日本語の本があることをヘッドホン氏に教わりましたので、参考に。

 そうですそうです、こういう対応関係で資本論は書かれています。

 何が言いたいか。

 マルクスの哲学の「革命」は、「視点を変えれば見方が変わる」という程度のものではありません。ヘーゲルも天才なら、マルクスも大天才。そのくらいすごいことを二十代半ばにやってのけたのが、「ヘーゲル国法学批判」「ヘーゲル法哲学批判・序説」、「経済学哲学草稿」です。

 そして資本論とは、この哲学革命を、経済学批判に適用した本であるということなんです。

 あらためてこの図を。強調しています。

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 再度強調しますが、資本論はまず第一にヘーゲル「論理学」を転倒させる「実践」です。

 と同時に、アダム・スミスの主著「国富論」やリカードの「経済学及び課税の原理」という主著を「根本的にさかさまだ」と言っている、きわめて論理的な構成をしている。

 このことを踏まえれば「資本論は科学の実践だ」と言えるでしょう。いえ、そう呼ぶ以外になくないですか?

科学としての資本論

 ヘーゲルの本は Wissenschaft der Logik 。これは「論理学」と翻訳されます。

 ところで日本語の「科学」って英語は Scienceです。ではドイツ語だと?日本語の「科学」はドイツ語では Wissenschaft 。

 Wissenschaft der Logik は「論理の科学」じゃないですか\(^o^)/

 マルクスは、ヘーゲルやアダム・スミスやリカードの説く「科学」はまったく正しいけれども役に立たたない。だって、それらをいくら読んで理解しても、自分の苦しい状況はぜんぜん変わらない。

 マルクスが自身の貧困の苦しさと戦う中で、ついに「正しいが役に立たない科学としての」経済学の論理を否定するのではなく、大転倒させた結果こそが「資本論」で、これは科学の革命と言ってもいいと思うんですよね。

 だからわれわれ人類は、この革命こそを受け取らなければいけないでしょう。
わたくし nyun は、今更ですがここにこそ度肝を抜かれましたので\(^o^)/

経済学は「まだ」転倒し続けている

 このように、現代の経済学が「今も根本的に逆さまじゃねーか!」ということにハッキリ気づくことができたのが、マルクスが読めているとは思えない松尾さんのおかげだったのですから人生わかりません。

 実は冒頭に書いたハイタッチの流れで、その時点では「マルクス主義者同志なんだから松尾さんもすぐにMMTを理解するんじゃね?」と思っていたんです。

 その後の松尾さんとの交流を通じて「奇妙な」コミュニケーション不全を体験することになりました。

 そして、この奇妙さこそが「MMTの伝わらなさ」の謎を解く鍵になるのです。

 順を追いますと。。。

 上のミッチェル来日イベントのあと、薔薇マークさんの企画でメール交換をしましょうということになりました。その記録はこちら。

 この数回のやりとりで「どうも話が通じない」と感覚を覚え、、、

 ハッキリ気づいたのは、今年の1月31日に慶応大学で開催された、金融学会主催による「長期停滞・低金利下の財政金融政策:MMTは経済理論を救うか?」というセミナーがあったのです。

 こちら。

 上のリンクでは「資料」のところが今は空白になっていますが、当時はここに6本の研究論文がリンクされており、誰でも閲覧することができました。こんな感じで。

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  あ、まだ残ってますね。リンクしておきましょう。

   中野論文 中野剛志(経済産業省)
   鎮目論文 鎮目雅人(早稲田大学教授)
   齊藤論文 齊藤誠(名古屋大学教授)
   金井論文 金井雄一(名古屋大学名誉教授)
   村瀬論文 村瀬英彰(学習院大学教授)

 そしてもともと直前までは「松尾論文」もアップされており、それがちょっと低レベルだったので、これではせっかくミッチェル来日が台無し!と思ったので松尾さんとメールのやり取りをしたものです。

 このへんの撤回の経緯と nyunとのやり取りのについて、後日松尾さんのエッセーに書かれています。 

 「鍵」はここに表れています。

【1月末は経済理論学会誌終わらないまま金融学会に向けて】
(中略)
 そしたら、1月も終盤になって、この原稿が金融学会員以外にもダウンロードできる形で公開されていることがわかったのです。こんな扱いになるとは全く知らなかった。バレたら景気循環学会の著作権を犯すと言って問題にされなねない。
 どうしようと思っている間に、この原稿がMMT界隈で「MMTのことがわかっていないトンデモ論」と炎上始めたらしく、広まる気配。もう黙ってやりすごすわけにはいかず、金融学会側に連絡して対処をお願いしたら、ほぼ同時にMMTの人の一人から直接私にメールも入り、両面のやりとりでまた時間を食いました。とりあえずすぐに金融学会のウェブからは削ってもらえたので著作権問題は問題にならないうちに解消できたと思います。
 そんなこんなでMMTの人からの指摘も読まなければならず、他の登壇者の報告論文も目をとおさなければならないのですが、経済理論学会の原稿に注と参考文献をつける作業もしなければ。大学の会議や定期試験監督の合間を縫って作業を進め、1月31日が慶応の金融学会、2月1日は法政の経済理論学会幹事会のために、選挙戦の大事な大事な最終二日後ろ髪引かれる思いで上京し、2月1日の午後の幹事会前の午前中に経済理論学会の雑誌の作業を完成させて送るという泥縄でした。

 ここまでで松尾さんとMMTerとの議論が噛み合っていないということがわかります、重要なのはここからです

 齊藤論文金井論文について松尾さんはどう書かれていたか。

 自分は正直、これらの論文を一読して文字通り気持ちが悪くなったのです。今でも異様に見えます。

 ところがこれら「どう見てもすごく変」なものが、松尾さんにはそうでもないようです。

 実際、MMTなどという必要はひとつもないモデルでした。齊藤大先生の前で偉そうな口を聞いてもうしわけなかったですが、この手のことは20年以上前から私も言っていたと言いました。いやもちろん、齊藤先生ご自身も20年以上前に同じ本質のモデルを作っていらしたということも強調しておきましたが。
 齊藤さんや村瀬さんが「MMT」という言葉で指していたことは、赤字財政支出を拡大してもインフレにならないし、金利も上昇しないという事態のこと。ほとんどそれだけです。
これは「MMT」と言うべきではなく「流動性のわな」と言うべきです
私の解釈では齊藤さんが同時期に作られた、貨幣需要の「ブラックホール」モデルも、同じ本質を持ったものだと理解しています。
なぜ今さらMMTに言われて、慌てふためいて90年代に言われたことを新しいことのように言いだしているのだろう? 今、このエッセー文を書きながら、だんだん愕然としてきたのですが、当時「流動性のわな革命」が起こっていることを認識して、新しい時代の到来にわくわくしていたのは、もしかしたら壮大な独り相撲だったのか?

 松尾さんは、他の経済学者の発表内容をまさに、「新しいこととは思われない」と言っている。つまりMMTは「当たり前のこととして」受容されているように見えているではありませんか。

 一方、やはりMMTer の望月さんが違和感を表明されていて安心しましたました(齊藤論文批判村瀬論文批判)。この望月さんの批評にも「奇妙」という言葉が連発されているところに注目です。

 そうなのです。彼らは「間違っている」というより奇妙なんですね。

 どういうことなのでしょうか。

 ヒントは、レイの金ぴか本にも書かれているモズラーの有名なエピソードでした。 

ヒントはショーペンハウエルの言葉

 モズラーは以前からMMT受容の将来について、しばしば哲学者ショーペンハウエル(1788−1860)の言葉を引用してきたというのです。ショーペンハウエルは、ヘーゲル(1770−1831)が「明」だとすると「暗」の哲学者。まさにヘーゲルと正反対です。

 何しろヘーゲルが高らかに人類の進歩を説く同時代に、同じカント哲学の継承者として「人は生まれないのが一番いい」「もし生まれてしまったなら最善なのはすぐ死ぬこと」という調子です。ヘーゲル絶頂のドイツでは全く人気がなく、評価されるようになったのは60歳を超えてからでした。

 モズラーが引用するのは、ショーペンハウエルが評価されていなかった頃の次の発言と思われます。

 Alle Wahrheit durchläuft drei Stufen. Zuerst wird sie lächerlich gemacht oder verzerrt. Dann wird sie bekämpft. Und schließlich wird sie als selbstverständlich angenommen.
 すべての真実は三つの段階を経る。最初は、嘲笑されるか歪められる。そして、闘争になる。そして最終的に、当たり前のことして受け止められる。

 注目は最後。「最終的にあたりまえのこととして受け止められる」!!!

 とても興味深い話です。

 主流経済学にとってのMMTは、ちょうどヘーゲルにとってのショーペンハウエルの位置にあるということ???あと、ショーペンハウエルとMMTの思想はまるで違うような気も…

すべての種明かし

 これをヒントに謎は解けたと思っているので図でやってみましょう。

 前提として経済学は、正反対等より「さかさま」です。だから「初めは受け入れられない」。
 こんな感じで。

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 その次に。
 頭の良い経済学者たちは自分たちではなく、MMTに方を反転させるのです。

 こう。

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 反転されたMMTは経済学者には当たり前なものと見え、MMTerにとっては「奇妙」に見える。

 そういうこと??

 イメージとしてはこう。まさに、このような「奇妙」です!
 この分析、けっこういい線いっていないですか?\(^o^)/

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 これは確か高校数学で習った「命題には裏、逆、対偶がある」という話と似ていて、仮にショーペンハウエルがマルクスの「裏」だとすれば経済学者はマルクスの「逆」に相当すると言ってもよいかもしれませんね。

 しかし、この事態をいったいどう考えればいいのでしょう。

 ショーペンハウエルの「そして最終的に、当たり前のことして受け止められる。」ってこれ。。。安心させてみせて、実はぜんぜんだめってやつじゃん!

 だって「気持ちが悪いひっくり返ったMMT」が「当たり前のこと」だったら最悪です!しかも出てくる政策が「逆」の向きになるのです。

 だから、わたしたちはもっと論理を誠実に辿る必要があります。そのためにヘーゲルの理解が助けになるでしょう。モズラーの洞察も使いましょう。

マルクスが受けた誤解とモズラーの天才

 もし上の図の事態が本当だとすると、せっかくのマルクスの「大発見」も常人の理解をはるかに超えてしまっているものだったかもしれません。これまでいろいろな人が、それぞれの勝手なマルクス像を勝手に読み込んでいた原因として、理論としての難しさもあったということは間違いなさそうです。

 しかし幸いなことに、もうひとりの天才であるモズラーの閃きが助けになります。

 その秘密の鍵が「順番」。スペンディング・ファーストなのですね。

スペンディングファーストを甘く見てはいけない

 スペンディング・ファースト。「支出が先」。

 ファーストとは「たくさんの中のいちばん始め」という意味の他に、「先後の先」という意味があります。「先後のうちの後ではなく、先」ということ。囲碁やオセロのようなボードゲームで先手と後手の違いのこと。

 囲碁でもオセロでも普通は黒が先手です。あべこべの世界では白が先手、黒が後手で。

 どちらでもいいじゃない?

 いいえ。

 怖ろしいことに、先後を逆に理解してしまうことが結果の重大な違いを生むことがあります。

 いわゆる「手段の目的化」「目的の手段化」によって良くない結果が起こることは、いくらでもあります。たとえば戦争が起こるのはそのせいでしょう?

 モズラーに戻ると、「財源」と「財政支出」という二つの事象の関係について「目的の手段化」が起こっていたことを彼が発見したということができます。

 「財源」→「財政支出」という一般のイメージの順番は本当は逆で、「財政支出」が先、「財政支出」→「財源」と考えないとそれは「目的の手段化」じゃないですかね?ということです。

 もう少し説明します。

手段の目的化、目的の手段化

 財源と財政支出とは、下図のような繰り返しで循環する系列なのだから、切り取る先後はどちらでも構わないはず。

・・・「財源」→「財政支出」→「財源」→「財政支出」→「財源」→「財政支出」→「財源」→「財政支出」→「財源」→「財政支出」→「財源」→「財政支出」→「財源」→「財政支出」→「財源」→「財政支出」→「財源」→「財政支出」→「財源」→「財政支出」→・・・

 モズラーは次のように考えたのでは?

 『この系列は【「財源」→「財政支出」】の繰り返しと考えても【「財政支出」→「財源」】の繰り返しと捉えても一向にかまわないのでは?』

 『いや、待て。「財源」っていったい何?「税&国債」のことだ。』

 『ならば元の系列は【「財政支出」→「財源」】ではなく、【「財政支出」→「税&国債」】の繰り返しと見るべきか。』

 『いやいや「税&国債」ってのはそもそも目的ではなくて結果なのでは?』

 『財政支出という「国民のための政府の行動」が先行していて、経済活動の結果として税があるのでは?』

 『もっと言えば、国債はいらない?なら税は?』

 『いやいや税がないと民間のお金が際限なく増えてしまうから、税は必要。。。【「財政支出」→「税」】でよくね?』

 これを図にするとこうですか。

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 経済学者は「税が先」。予算制度も「そういうこと」になっている。

 対してMMTは「財政支出が先」だろうという。

 わかるでしょうか。

 事後的な分析で正しいことを言うためにはどちらの把握でも構わないということが。

 税は結果にすぎません。経済学は転倒していて「あらかじめ選択肢を狭める枠組み」として作られています。

 もう一つやりましょう。金利です。

 どうかこの図を見ながら金利のことを考えてみて下さい。

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 経済学者は、日銀は金利を誘導しているといいます。ということは経済学者は日銀が金利を支配できるし、支配しているということをよく知っている。 

 それなのに経済学者は国債発行時の名目金利は「市場に従う」と言う。そして将来の市場金利を騒ぎ立て、「国債の消化が危ぶまれる」とか、「国債が暴落する」とか言うのです。

 いやいやいや。

 目線を変えて政府が先(国債の名目金利が先)と考えていけない理由があるのですか??

 政府が金利を決めればいいじゃないですか。何なら、国債制度など、そもそもなくてもいいものではないですか?

 わかるでしょうか。事後的な分析で正しいことを言うためにはどちらの把握でも構わないということが。

 ここでもまた経済学が転倒していて「あらかじめ選択肢を狭める枠組み」として作られています。

 「手段が目的化」したり「目的が手段化」することの問題は、人が「頭の中で考えた思考」が自分たちの選択肢を少なくしてしまうことなのです。

 それゆえ「A →B→A→B→A→B…」とか、「A→B→C→A→B→C…」というような循環する諸関係をどのように把握するか、「AとBのどちらを先に考えるか」ということがきわめて大事なのですね。

 そしてこれはヘーゲルが格闘した科学(Wissenshaft)の問題にほかなりません。

「あなたの出発点」こそが大事じゃんという哲学

 たとえば現代のわたしたちは、怪我をすると当然のように消毒をします。

 これは細菌が化膿の原因であるというストーリーを人類が知っているからです。つまり、「化膿→細菌」ではなく「細菌→化膿」であるという先後の関係を知っているのです。

 こういうのは科学ですよね。

 消毒の効果は1866年にリスターが発見したとされています。資本論出版の前年。そういう時代だったことを意識してください。

 先後関係は「どちらでもいい」わけではない。「本質」や「本当の原因」を把握することが科学にとっていちばん重要なことの一つです。

 転倒した弁証法、転倒した経済学では現実の問題を何一つ解決することはできません。それどころか「転倒した思考によってとんでもない不幸が起こっていること」に注意しなければなりません。

 資本論が、その論理によってこの社会の本質を掴み取り、「転倒した経済学」を「正しいかもしれないが意思決定にはむしろ有害な思考じゃねーか」とボコボコにできたのは、著者のマルクスが、ヘーゲルの転倒を修正した新しい弁証法を開発したことによってです。

 骨子はこうです。

 もしあなたがいま「生きにくさ」を感じているならば、その論理のスタートは社会システムに疎外されたあなたです。始まりは社会システムではありません。

 この「経済学批判2020への序説」ではそのことを語っていきたいです。

 大学や公演や Youtube で気楽に頓珍漢なMMTやマルクスを語る「ブルジョワ」チームの人たちは、出発点「が」ちがうのです。

 あんなふうになりたいかって?

 えーと。

 だってこうですよ。あちらへ行けと? 

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わんわん

つづく

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