見出し画像

ロマンティックMMT−22: マルクス-MMT④ 資本論は救いの書?

マルクス-MMTの四回目です。バックナンバーはこちら。

 ① 簡単!表券主義
 ② アンケート「資本主義って何ですか?」
 ③資本主義って何だろう

 前回は「資本主義という言葉は特に日本では曖昧になっている」という指摘をし、マルクスは資本論で「資本主義的社会の始まりとその破滅を記述した」という話をしました。さらに資本において「資本とは何か」という説明は、いちばん最後の章(第25章)にさり気なく示されているということを書きました。

 今回はそこから。

資本論における「資本」とは

 原文はこうです。

das Kapital nicht eine Sache ist, sondern ein durch Sachen vermitteltes gesellschaftliches Verhältnis zwischen Personen.

 nicht A , sondern B は、英語の not A , but Bです。「Aではなく、Bである。」というのは強い表現です。こんな感じでしょうか。

 「資本とはモノではない。そうではなく、モノたちに媒介された人と人との間の社会的諸関係なのだ。」 

 社会的諸関係、つまり家族・国家・法律・道徳・科学・芸術といったものが「資本」です。もともと人間が誕生させた「商品」が、資本という巨大な怪物に変身し、人間を支配し大地を蹂躙するに至りますよというのが基本的なストーリーになっています。ここで恐ろしいのは、その恐ろしい資本が今も発展し続けているということです。

 ところでMMTの貨幣観は、貨幣とは社会的諸関係だというところから出発していましたね。それは以前こちらに少し書きましたので、よろしければ。

 MMTと話がつながったのは良いのですが...

 やっぱり「だから何?」という声が聞こえそうですね。

それだけ?と思ってはいけない重み

 「社会的諸関係、つまり家族・国家・法律・道徳・科学・芸術が恐ろしい!」と言われたところで、現代の多くの人はこれを「仕方ないよね」と思ってしまう。

 確かにわたしたちは生きていくために「仕方ない」から就職活動をして、どこかに雇用されなければなりません。あるいは作った「商品」を市場に売らなければ生きていけません。

 ところがそうやって、わたしたちが「システムに乗る」ことこそが、ますますわたしたち自身を苦しめる。だから「仕方ない」では済まないということになる。「仕方ない」としてしまう考えこそが社会を苦しめるのですから。

 資本論には、こうした資本主義的生産様式の動態が淡々と書かれています。しかもそのスピードは必然的に加速します。

 これが事実なのだとすればわたしたちはどうすればいいのでしょうか?

マルクスの意図は「弁証法」

 実は、その答えは資本論の記述の「中」にはありません。「資本論の外側」を想像する必要が出てきます。

 前回書いたように「天動説しか知らない人に天動説の説明」しても「だから何?」「知ってるし」と言われるだけ。

 同じことなのです。「資本主義社会でいいや」「仕方ない」と思っているなら本当に意味がわからない、つまらない本でしょう。

 当然ながらマルクスの意図も資本論の外部、つまり「未来を想像させること」にあったことは間違いありません。

 なにしろ資本論執筆時のマルクスは、1848年革命に敗れロンドンで亡命生活を送っていた経済的に大変な時期でした。この時期に六人の子どものうち三人を亡くしています。そんな時期に、ただ「理解を深めるだけ」に無理をするわけがありません。資本主義社会の動態をただ記述し、ただ読者がそれを読んで現状を「理解」するだけなら、出版する意味なんてないじゃないですか!

 この事情をうかがわせる資料として1865年にエンゲルスに送った書簡があります。資本論出版の前々年。https://marxists.catbull.com/archive/marx/works/1865/letters/65_07_31.htm

 冒頭に、いかにカネに困っているかを述べた上で(MMTでおなじみのIOUという単語が見えますねー。祖国から山のような請求書が来ていたとか。)、注目はハイライトさている "Whatever shortcomings they may have” 以下の箇所。太字はじぶんです。

  Whatever shortcomings they may have, the advantage of my writings is that they are an artistic whole, and this can only be achieved through my practice of never having things printed until I have them in front of me in their entirety. 
 いかなる欠点を有しているにせよ私の著作の長所は芸術的な一個の全体であることにあり、それが達成できるのは、それが全体として出来上がるまでは絶対に印刷させないという方法によってのみです。

 資本論が「一つの完成させた作品」でなければならないことにこだわっています。続けて、こう。

 This is impossible with Jacob Grimm’s method which is in general better with writings that have no dialectical structure.
 これはヤコプ・グリムの方法では不可能なのです。グリムの方法は全体として、その構成が弁証法的ではない著作なら、むしろ向いているのです。 

 さらに一週間後の手紙にも、資本論は ‘work of art’ なのだ!という強い決意が述べられています。 リンクは英訳版なので興味のある方はどうぞ。

 このヤコプ・グリムとは、あの有名な「グリム兄弟」の兄のほうで、古いドイツ語による詩歌や言語の研究として各地の童話の聞き取り、それを順次発表した人です。資本論も、そのような「弁証法的ではない著作」でなかったなら「まとまった形」である必要はなかった、というわけです。

 つまり、資本論第一部とは、それ自体弁証法的な「ひとかたまり」の著作として意図されていたということがはっきりします。

 では弁証法とは何でしょうか?

弁証法とは?

 弁証法とは…

 この説明は次回にしますが、カントからヘーゲルに至るいわゆる「ドイツ観念論」哲学の話です。ヘーゲルという人は当時の知識人の代表格で当時の読者は「ヘーゲルの弁証法」のことを全員知っていたという状況を念頭に置く必要があります。

 だから本当のことを言えば、資本論は弁証法を知らないと真の内容はわからないはずなのです。出だしの数節を読んだ時点で「これはヘーゲルの「小論理学」の形式だな」と当時の平均的な読者なら、誰でも感じるように書いてあるわけです。現代のわたしたちは、まずそれを補わなくてはなりません。

 ところが実は当時でさで意図が読者たち、特に経済学者に伝わらなかったようなのです。想像できますね。まさに今のMMTのように「なんで当たり前のこと言っているの?」「知ってたよ!」みたいな反応だったと思われます。

 なのでマルクスは1973年に出版された第二版では、そうした経済学者の無理解を踏まえた改訂をしています。

 この第二版のあとがきには、有名な、とても重要な記述があります。

弁証法はひっくり返さなければならない

 岡崎次郎訳にて引用します。当時の誤解の様子がなんとなく伝わってきます。

 ヘーゲル弁証法の神秘的な面を私は 30 年ほどまえに,それがまだ流行していたときに,批判した。ところが,私が『資本論』の第一巻の仕上げをしていたちょうどそのときに,いまドイツの知識階級のあいだで大きな口をきいている不愉快で不遜で無能な亜流が,ヘーゲルを,ちょうどレッシングの時代に勇敢なモーゼス・メンデルスゾーンがスピノザを取り扱ったように,すなわち「死んだ犬」として,取り扱っていい気になっていたのである。それだからこそ,私は自分があの偉大な思想家の弟子であることを率直に認め,また価値論に関する章のあちこちでは彼に特有な表現様式に媚を呈しさえしたのである。弁証法がヘーゲルの手のなかで受けた神秘化は,彼が弁証法の一般的運動形態をはじめて包括的かつ意識的な仕方で述べたということを,けっして妨げるものではない。弁証法はヘーゲルにあっては頭で立っている。神秘的な外皮のなかに合理的な核心を発見するためには,それをひっくり返さなければならないのである。

 この最後の一文が有名で、ここが重要なヒント。マルクスはヘーゲルの弁証法ではダメだと言っている。偉大な思想だと認めた上で、自分は「ひっくり返す」ことで「核心を発見」したと言っているのです。

 核心ですよ!

視点をひっくり返すことで初めて核心が見えるということ

 言いたいこと、わかるでしょうか。

 この「ロマンティックMMT」シリーズで一貫してやっているのが、この「ひっくり返し」のつもりだったのですけど、ネタ元を明かせば、ぜんぶマルクス\(^o^)/

 本当に不幸だなと思うのは、日本のマルクス経済学たちが、よりによって、この転倒問題を誰よりも意識していたマルクスの哲学を「ぜんぜん転倒さずに」理解してきたとしか見えないことなんですよね。

 前回はこんな図を出しました。。。

画像2

 もっと詳しく言えば、こんな感じ。マルクスの豊穣な人格を凝縮した著者も、図の右からの目線で「解釈」しようとするなら、その理解は読み手の教養レベルに限定されてしまうということがわかるでしょうか。

画像3

 マルクスの著作をただ「解釈」「分析」しても意味はありません。

 読み手は下の図のように読まなければダメです。マルクスとともに未来を考える。そうすると膨大な先人の知恵がわたしたちの味方になるのです。

画像3

 「巨人の肩に乗る」という言葉を聞いたことがありませんか?これはルネサンス時代に「古代文化の偉大さを認め継承した上で進歩を意識する」という意味で生まれた言葉とのことですが、幼少時から聖書や神話に親しみ、若い時期に膨大な教養を習得したマルクス自身もその典型なのです。

 資本論は、この視点で読んでこそ「読者のあなたの現実」のものとして意識されるようになるのです。

ドイツ・イデオロギーのこと

 「ドイツ・イデオロギー」というマルクスの別の著作に、これまた有名な言葉があります。「フォイエルバッハのテーゼ」と言われています。

 Die Philosophen haben die Welt nur verschieden interpretiert; es kommt aber darauf an, sie zu verändern
 哲学者たちは世界をあれこれと解釈してきたにすぎない。 重要なのはしかし、世界を変えることなのだ。

 そういうわけで、マルクスの著作は「経済学者の目線」でなく、「自分自身の目線」で読まなければなりません。

 そして、経済学者の目線が「ヘーゲル弁証法の目線」です。マルクスはそれを転倒させたかったのに。 

 次のエントリでは、マルクスはどのようにヘーゲルをひっくり返したのかの話をしたいと思います。

 が、最後にちょっとだけ。

 いったいどうしてこの、Nyunという犬は、名だたるマルクス「学者」を差し置いてこのような説明ができるのでしょう?

 それは、この犬は、他の誰よりもヘーゲルの生きた18世紀後半のドイツ語圏文化を友として生きてきたから自信があるから。知っているから理解できる。それだけの話なんですね。

 知らないことは読み取ることができません。

知らないものは読み取れない

 資本論の中で、二つだけその例を。

 冒頭に引用した「資本とはモノではない。そうではなく、モノたちに媒介された人と人との間の社会的諸関係なのだ。」の箇所はいちばん最後の章(第25章)の文でした。

 これに先立つ第23章にも資本の性質を上手く表現したとされる、とても有名な文があります。

Wie der Mensch in der Religion vom Machwerk seines eignen Kopfes, so wird er in der kapitalistischen Produktion vom Machwerk seiner eignen Hand beherrscht.
宗教において人間は、自分の頭が作ったにものに支配される。これと同様に、資本主義生産において人間は、自分の手が作ったものに支配されるのである。 

 この Machwerk と「自分の手が作ったもの(seiner eignen Hand beherrscht)」というテキストから、想起されるのは旧約聖書です。そのためにはドイツ語の聖書を知っているかどうか。知らなくても、せめて聖書を調べようと思うか。

 そういうところが、われわれ文学屋が得意とするところなんです。調べればすぐに分かるんですよ。

 ドイツ語版の旧約聖書 イザヤ書37 強調はにゅん

und deren Götter ins Feuer geworfen haben; aber das waren auch keine Götter, sondern nur Machwerk von Menschenhänden, Holz und Stein: die konnten sie vernichten.
(そしてその神々を火に投げ入れました。しかしそれらはの物たちは神ではなく、たかだか人間の手が作ったもの、木や石だから、滅することができたのです。)

 資本論第二版あとがきの「宗教において人間は、自分の頭が作ったにものに支配される」の箇所と呼応しているのだとわかります。

 そしてこれは、なかなか深い意味を含んでいます。

 イザヤ書のこの下りは、紀元前700年頃のユダ王国の王ヒゼキヤの物語で史実とされています。ユダ王国の首都はエルサレム。今のイスラエルの首都ですね。

 ヒゼキヤ王のエルサレムはアッシリアの王たちに蹂躙されてしまいます。たかだか人間の手が作ったものは滅せられてしまうことがあるわけです。しかし神は不滅です。ユダ王国は敬虔なヒゼキヤ王の祈りによって救われることになります。

 つまり、マルクスは「資本主義生産において人間は、自分の手が作ったものに支配される」といっけん絶望的な記述の中に、「それはたかだか人間が作ったものだから滅することはできる」という含意を埋め込んでいるのですね。

 資本論にはこうした「知らなければわからない」仕掛けがたくさんあるのですが、もう一つだけ紹介。シラーの代表作とされる長編詩「鐘の歌」というやつで。

シラーの「鐘の歌」

 「鐘の歌」は、かつてのドイツ人は全員聞いたことがあったはず。そのくらい有名でした。小学校で暗唱させられたものだと聞きます。

 原文は、ネットのいたるところに落ちていますがたとえばここにありました。

 内容は、古き善き職人の仕事と生活を生き生きと描写するもので、仕事熱心な職人の男が恋をして結婚して、新婚期間の楽しい時間を経て、男はまた仕事に出かけ、女性は主婦となって母となり家庭を守る…という。

「鐘の歌」からの引用は離れた二箇所にあるのです。

 詩のほうでは、初恋の、あの美しいひととき!

Der ersten Liebe goldne Zeit,
Das Auge sieht den Himmel offen,
Es schwelgt das Herz in Seligkeit;
O dass sie ewig grünen bleibe,
Die schöne Zeit der jungen Liebe!

 これが資本論の第13章の第三節では、資本家が機械を入れると労働者を有効に使えるので、とても儲かる最高のひととき!という感じ。マルクスは「美しい(schöne)」を外して、すぐ上から「初めての (ersten)」という形容詞を移動させて引用しいるわけです。

Während dieser Übergangsperiode, worin der Maschinenbetrieb eine Art Monopol bleibt, sind daher die Gewinne außerordentlich, und der Kapitalist sucht diese "erste Zeit der jungen Liebe" gründlichst auszubeuten durch möglichste Verlängrung des Arbeitstags. Die Größe des Gewinns wetzt den Heißhunger nach mehr Gewinn.

 わかるでしょうか。

 初恋の美しい時間は短く一度きりのはかないもの。工場経営者が最新設備を入れて「うまみ」が取れるのは他社に追いつかれるまでの短いひと時だと!

 もう一箇所は、「新婚時代の美しい妄想はやがて落ち着いて、男は仕事を女は家庭を」、というところ。

Mit dem Gürtel, mit dem Schleier
Reißt der schöne Wahn entzwei
Die Leidenschaft flieht,
Die Liebe muß bleiben;
Die Blume verblüht,

 資本論の植民地支配の話。
「母国では経済学者が説明するような資本家と労働者の対等な関係が成立するように見えるけれども、その美しい妄想は植民において真っ二つに分断されている

 So wird das Gesetz von Arbeitsnachfrage und Zufuhr in richtigem Gleis gehalten, die Lohnschwankung innerhalb der kapitalistischen Exploitation zusagende Schranken gebannt und endlich die so unentbehrliche soziale Abhängigkeit des Arbeiters vom Kapitalisten verbürgt, ein absolutes Abhängigkeitsverhältnis, das der politische Ökonom zu Haus, im Mutterland, breimäulig umlügen kann in ein freies Kontraktverhältnis von Käufer und Verkäufer, von gleich unabhängigen Warenbesitzern, Besitzern der Ware Kapital und der Ware Arbeit. Aber in den Kolonien reißt der schöne Wahn entzwei.

 という感じで、「当時のドイツ語の本を読める人なら誰でも知っている」言葉を引用元を明示せずに埋め込んで、それがあるから、翻訳よりドイツ語の方がはるかに意味が分かる。そういう仕掛けが随所にちりばめられ、しかもそこにはけっこう重要な意味が与えられている。。。

 文学を知らない日本の経済学者ごときが理解できる代物ではなかったんですね。

 さて今回はこの辺で。次回はヘーゲルとマルクスの弁証法をできるだけわかりやすく紹介することに挑戦!

つづく


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?