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MMTの「お金は『借用書だ』論」入門−第三回:負債論という背景

 前回まででご紹介したのは、社会とは人間関係であり、人間関係は「貸し借り」「債権‐債務」関係とみなすことができ、そして貨幣はその一部を構成しているという考え方でした。そこではまた、英語話者が借用証書のことを「IOU」と呼ぶときにはこの「関係のイメージ」がつながっているということも示唆していたつもりです。

 プロローグ
 言葉を大切にしましょうよ(経済学者を反面教師にして)
 MMTの「お金は『借用書だ』論」入門
   第一回:注意事項あり
   第二回:負債とその解消

 ここからの方針としては、次は「政府のIOUとはいったい何だろう?」ということを論じていきたいわけですが、今回ここで巷の日本語「MMT本」がやっていない背景説明を入れます。

 理由は二つ。

 第一に、MMTの背後には負債(Debt)に関する議論があります。MMTを離れても「負債をちゃんと扱わない主流経済学が根本的におかしいぞ!」という議論はあるのです。これを意識する人がもっと増えるとよいという思い。

 第二に、本来はこうした背景を持つ海外MMTerの幅広い議論が、特に日本語圏において「異常」なまでに狭く浅いペラペラな議論としてしか紹介されていないように感じられることです。もちろんMMTそのものが、まだ紹介されて日が浅い考え方なので抜け落ちは避けられません。たとえばMMTがJGPを提案する背景には別の意味で広大な議論がありますがそれが十分伝わっているとは思われません。しかし、とにかく決定的に抜け落ちているのが負債論です。これは英語でMMTを学んだ人ならばほぼ全員に同意いただけるところだと思います。今回はそのあたりを。

負債(Debt)の豊かな議論

 まず、サッカーの本田選手の紹介でよく売れたというデヴィッド・グレーバーの「負債論」を紹介します。これは反金融資本主義や反ウオール街の議論に着いていきたいなら必読の書のひとつでしょう。

 この原題はずばり「Debt(負債)」。この本の内容は、まさにこのシリーズでお話している「社会を債権-債務関係として捉える」という議論でして、グレーバーも徹底的な経済学批判をやっています。つまり、従来の経済学は貨幣を物々交換が発展したものとして捉えているが、そもそも貨幣とはそうしたものではなく「負債を押し付ける」権力の行使そのものだったではないか、という感じです。

 次に、スティーヴ・キーンの「Can We Avoid Another Financial Crisis?(邦題:次なる金融危機)」を紹介しましょう。これも、主流派経済学が見落とす「民間債務」がバブルやクラッシュを起こすという話です。

 この本も結構評判を呼びましたが、マイケル・ハドソン(ケルトンの兄貴分のような人)がこの本についてこんな書評を書いています。拙訳を入れます。

 "Steve Keen explains why the financial crisis it occurred, and why it can't just get better on its own, along its present track. He also explains – in a hilarious and absolutely justified takedown – why mainstream economists have a "trained incapacity" in being unable to understand why the economy has broken down – and hence, why they don’t have a real solution. We are still living in the aftermath of the 2008 crisis. It’s all about debt. But economists fear they will lose their jobs if they say that debts must be written down. Keen asks what is more important: to save the economy, or to save the jobs for economists whose prestige rests on their not understanding why economies are in trouble today."
"スティーブ・キーンは、なぜ金融危機が発生したのか、そしてなぜそれは自然に回復するものではあり得なかったことを説明している。彼はまた、主流の経済学者が「訓練された無能力」を持ち、それゆえに経済が崩壊した理由を理解できず、彼らは真の解決策を持っていないことを完膚なきまでに明瞭に解明している。我々は未だ2008年の危機の余波の中で生きている。すべては債務(Debt)の問題だ。しかし、経済学者たちは、債務を記述しなければならないと言ってしまうことによって自分たちが職を失うことを恐れている。キーンが問いかけているのはさらに重要なことである。いったい「経済を救うこと」と「今の経済がなぜ困難に陥っているのかを理解しないことによって名声を得ている経済学者の雇用を救うこと」の、果たしてどちらが重要だろうか。

 辛辣ですねー。経済学者は社会にいない方が良い存在だと。。。

 まあとにかくMMTの議論はこうした文脈の中にあるわけです。

 本シリーズとの関連でもう一冊。ジェフリー ・インガムの 「The Nature of Money」 もついでにご紹介しておきます。

 インガムは中野さんの「富国と強兵」でも信用貨幣論の文脈でちょこっと紹介されていたと思います。本シリーズの「お金を社会の人間関係として捉える」という視点はインガムの議論に依っていたりします。ケルトンはつい先日のバルファキスとの対談の中で「1990年代に読んだインガムのペーパーが大きな契機だった」ということ述べていました(15分30秒くらいのところ)。なるほどー。

 さて。
 以上のことでじぶんが日本語圏の皆さんに伝えたいのは、MMTの背後にはこうした豊かな議論の蓄積があるということ。MMTはそれが社会の構造を扱うものである以上、従来の「経済学」にそもそも収まることができるはずものではない。むしろ社会関係と不可分のものである「負債」から通貨の部分だけを切り取り、その量だの政策金利だのと現実とはあまり関係ない数字をいじくりまわす経済学なるものにいったい何の意味があるのか?(いや意味ないどころか有害でしょう)という話なわけです。そもそもが。

レイの「MMT現代貨幣理論入門」のこと

 そういう目で見ると、いわゆる「金ピカ本」における「IOU」という単語の扱いがちょっとよくないと思っているのでそれについて。

 原著ではこの単語、「IOUs」という形で340回「an IOU」という形で18回「the IOU」という形で24回、合計382回も使われていて、間違いなくこの本の最重要単語の一つです。レイ自身もそれを意識していて、冒頭の「Difinition(用語の定義)」というところで説明を書いているのです。

 「IOU(I owe you=私はあなたに借りがある)」は、計算貨幣を単位とした金融債務、負債、支払義務のことを指す。それを所有する者にとっては金融資産だ。IOUは物的実体(例えば、紙に書かれたもの、硬貨に刻印されたもの)がある場合もあるし、(例えば、銀行のバランスシートに)電子的な記録であることもある。もちろん、IOUは発行者にとっては負債だが、保有者(債権者とも呼ばれる)にとっては資産だ。(にゅん修正訳)

 本の最初に用語の定義を述べる形式は学術書ではよくあるもので、議論の曖昧さを避ける意味があります。これは小説における登場人物紹介みたいなものですね。原著の382回はこれの定義を踏まえ使われているのです。

 ところが翻訳本では訳注として次のように断ったうえで、せっかく定義された一語を少なくとも四種類以上の単語に置き換える方法を採っています。

”IOU”もまた、原著本文では「負債」、(負債を表示した)「債務証書」の2つの意味で用いられている。そこで、前者の場合に「負債」「債務」、後者の場合には「債務証書」「借用書」などの訳語を文脈に応じて使い分けている

 これはダメだと思います。これをやってしまったら英語版の読者がこの本から感じる「IOU感」がすっかり失われて、本来伝わったはずのニュアンスが相当欠落するはずです。せめて全個所に(IOU)という文字を入れるべきだったというのがじぶんの意見です。

「銀行は預金をゼロから創造する」のこと 

 レイ本と英語いう話に関連してもう一つだけ。MMTの「ツカミ」のフレーズについてです。こんな言い方をよくします。

 政府の小切手は不渡りにならない!

 けれど、日本は小切手が普及していないのでこの言葉をそのまま日本語圏に伝えてもあまり意味がありませんね。でも、日常的に小切手を使いいつも預金残高を気にしている文化にいる人々には「響く」ものがあります。「あ、そうか!」と理解が始まる。

一方、これもよく使うツカミのフレーズの一つです。

 銀行預金は貸し出しの時にゼロから創造される!

 いわゆる「万年筆マネー」ですね。これは言葉の上では日本も英語も同じですから、日本人が読んでもついつい「わかった!」と思ってしまいます。ただですね。小切手での決済が日常に溶け込んでいる文化とそうでない文化では読み手の感覚がだいぶ違うということもあるのです。これが翻訳の難しいところ。

 小切手文化圏では、ふつうの人たちが小切手を切る時、つまり、なにか買い物をする時には自分の小切手にサインをして店に渡すときに「サインだけで支払いをしている」わけです。彼らはこのイメージで「ああ、銀行貸出ってあれと同じか\(^o^)/」という感覚にピンとくることがでするのですね。

 MMTの議論はそこから出発して、決済の話や、貨幣ヒエラルキー(預金と小切手は同じじゃん!)の話や、民間債務バブルの話、「銀行貸出では民間の純金融資産は増えない(負債の交換だから)」という重要な話にそのままダイレクトにつながって行きます。

 対照的に日本語話者にはこの感覚がないので、ぜんぜん違うイメージにすっ飛ぶひとがどうも多い。というか、ほとんど全員そうじゃないか??と思ってしまうくらいです。すぐに「日銀(統合政府)がゼロから貨幣を作っている!それがMMT!」になってしまう。そしてそのことによって、本来ダイレクトにつながっている上記の重要な話が「信用貨幣論」「租税貨幣論」「貨幣ヒエラルキー」などなどに分解されバラバラに理解されてしまっている。

 さらには「MMTの前提には租税貨幣論があるけれど、自分はちょっとおかしいと思う」というような、ちょっと見当はずれで浅い議論が「経済学者」や「経済専門家」からも出てきてしまう。特にMMTを「議論する」と称する経済学者の不勉強と言うか知性のなさは日本語圏だけが際立っています。なんとつまらなく不幸な状況でしょうか。

 とまあ、そういうわけで始めたのがシリーズです。
 けど、そんなに難しい話ではないはずです。本田選手を見習ってわたしたちも「政府のIOUとはいったい何か」。そのあたりを次回から考えていきましょう。

つづく

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