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言葉を大切にしましょうよ(経済学者を反面教師にして)

 それでは「人々のためのMMT」の中身を書きはじめようと思うのですが、つまらないMMT本(日本語)があふれる中でやっぱりこういうものを書いてみるにあたり最初に訴えておきたいのは,「言葉を大切にしたい」ということです。MMT解説(日本語)のほとんど、特に経済学者によるものはあまりにも言葉が軽くほとんど無内容なものに変換されているとしか見えないからです。

 端的に言えば、いま「人々の」と言いました。そこには障碍で苦しんでいる人(社会的虐待の被害者)や、やまゆり園事件の被害者たち、そしてそのご家族のような境遇にある人を含んでいます(以下、そのような人々のことを「経済マイノリティ」と呼ぶことにします)。それは当たり前のことです。その当たり前の感覚を持つかどうかです。

 わざわざこんなことを書かなければならないのは、MMTが「住民の生活所得を保証せよ」というときに、日本の紹介者たちがそれをちゃんと読み取っているようにはとても見えないからなんです。びっくりします。そうでないならMMTを紹介すると称する人々(とくに経済学者)の政策提言が、経済マイノリティを救うものとして見えないものになることの説明がつきません。ひどいのになると「リフレ派と同じ」とまで言う愚か者までいます。ほんとうに冗談は顔だけにしてほしい。どこをどうやったら経済マイノリティがインフレ目標で救われることになるのか!人をバカにするにも程があります。

 そして残念なことに、そんな程度の理解力しかない人物が教壇から若者にものを教えているのです。

ケルトンの新刊に関連して

 MMT主導者のひとりケルトンがまもなく「The Deficit Myth」という本を出版するようですが、インタビューなどを見るとそこでも「言葉とそのニュアンス」が一つのテーマになっているようです。

 タイトルのDificitという言葉(日本語では「財政赤字」と訳されると思います)が醸し出す「良くないニュアンス」が問題だから、イメージを変えていきたいですね、という話です。なぜかといえば deficit spending  こそは民間の純金融資産を増やすものだから。人々にとって良いことのはずの言葉に「良くないニュアンス」が入るのは逆ですよと。

  また、この本が日本に紹介されるに当たり、さらに心配していることもあります。たとえば日本語話者のかなりの方が、この deficit spending をいわゆる「財政赤字」のことだと受け取ってしまう可能性があると思います。

 そうではありませんよね。でも日本語の「財政赤字」が意味してしまうのは、ほとんどの場合いわゆる「一般会計の赤字」のことだったりします。もしそう理解されてしまったら、その時点でとんでもなくズレた意味になってしまいます。deficit は「欠乏、足りないこと」ですから、これは「公的支出から公的収入を引いたもの」、です。年金基金が株を買ったらそれも当然 deficit spending です。もちろん日銀が買っても同じです。ゆうちょ銀行やかんぽ生命を考え合わせれは総額は100兆円程度になっているはずです。経済学者はしばしば赤字財政支出のうち一般会計だけを切り取るインチキをします。本当に困ったものです。

福沢諭吉の話

 プロローグで小浜逸郎さんの著書を好意的に取り上げました。小浜さんは「福沢諭吉はほとんどMMTに到達していた」「福沢諭吉の精神に戻ろう」といった趣旨のことを書かれています。

 福沢がMMTに到達していたというのは判官びいきかなという気もしますが(そもそも金融資産が蓄積されておらず、ゼロから国を作ろうというときに民間に国債を発行してそれを回収しようと思う人物がいたら頭がおかしい。むしろ、いま「将来のために増税が必要」という経済学者やマスコミ人の頭がおかしいだけですよね)、「言葉を大切に」という意味で福沢の精神に戻ることはとても重要だとじぶんは強く思います。

 開国後の時代に英語脳を身に着けた先人たちが「それまで日本人が考えたこともなかった概念」をいかにして日本語に置き換えるか苦労し、工夫し、そのとき新しい「日本語」がたくさん生まれたというのは有名な話ですね。

 「社会」や「自由」、「権利」といった基礎概念が短期間に一気に日本語に定着しました。「経済」や「為替」は福沢の発案だったと聞きます。その言葉がもともとの意味をどれだけ保持しているかは怪しいものです。「Right」が「権利」なのはおかしい、「利」というニュアンスなんてないぞ!と強く主張していたそうです。本当にそのとおりだと思います。

 AOC議員が social rights! とか justice! と叫ぶのを「権利!」「正義!」と曲解してはいけないのと同じで、そこには福沢が紹介した「天は人の上に人を作らず。人の下に人を作らず」という精神が背景に必ずあります。それがあるから、日本の経済学者がぜんぜん理解しない、MMTの「生活所得を全員に保証せよ」の当たり前の意味が英語の話者にはあたりまえに通じるわけです。 

IOU(I owe you)とは何だろう

 お金の話に戻りましょう。MMTerをはじめ「(日本の経済学者と違って)お金のことをちゃんと考える人たち」の文章には、しばしば「お金はIOUだよね」というような表現が出てきます。レイの「MMT入門」もそうです。

 このIOUという語を英和辞典で調べると「借用書」となっていますが、もちろんこれは間違いではありません。しかし、それを丸呑みして「ああ、お金てボクが知っているあの借用書みたいなものか」と「理解」したら、とても大事なニュアンスがごっそり落ちてしまう。つまらない議論になってしまうのです。日本の経済学者のようになってはいけません。

 この I owe youという感覚を日本語にするとどうなるかを考えると、これって明治以前の日本人にもあった感覚ではないかと考えています。

 こうだと思うんですよね。

 I owe you = 自分はあなたに恩がある。

 ようやくこの話を、次回から。

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