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すべてを変えた あの日…(東日本大震災撮影取材記録)

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#社会貢献

すべてを変えた  あの日…【うつしだしたもの】

すべてを変えた あの日…【うつしだしたもの】

写真を撮ることを生業にしているからこその使命感と一人間として見過ごせない思いだけで私達は一夫婦として彼等の懐に飛び込んだ。そして心を開いていってくれた。
40年フリーランスで仕事を続けてきたからこそこの業界がどんなところかよく理解している。報酬を貰うシガラミを外したところにいなければ真実は表現できないということだ。組織の中にいればできない。表現することに報酬対価ありきが前提ではそこには濁りが入る。

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すべてを変えた   あの日…(16)

すべてを変えた あの日…(16)



終着駅の手前で

あの日、2011.3.11.14.46からわたしのこころはずっと旅にでていた。 そう気がつき、今この記録をたどり始めたのは、ようやくこの旅の終着駅に辿り着こうとしているからなのだ。

ここにくるまで、激流にながされたり、溜め池でただよい、ぽっかり浮かんだり沈んだりしながら流されるままにきたようにおもう。こころの舵をとれなかったのだ。 それは今だけを追うのが精一杯で、この

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すべてを変えた あの日…(15)

この手記を残そうと決めたのはここに記す彼等の声を届けたかったからです。それでもここに記すことができるのは一部、伝えられないことが多く私達のなかに染み付いています。この震災がなければお互いに知り合うこともなかったからこその縁があります。私達の取材は無理やり相手から何かを奪い取るような押し付けるようなやり方はしない。何度も会い会話を重ねる中でふと吐き出した思いを書き残し、その瞬間を写し出したものであり

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すべてを変えた  あの日…(14)

すべてを変えた あの日…(14)




取材している中で語られる

[忘れないでください]という言葉。

ずっと考えてきた。
忘れないということはどういうことなのか。
この震災の記録を残すということは何を残せばいいのか。

この時の記憶を紐解くことが今まで出来なかった。

混乱したままで鍵を開けたら何が飛び出してくるのか、自分を見失ってしまいそうで開けられなかった。 本当に私は臆病だ…。
もっと早く向き合えていたら何かが

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すべてを変えた   あの日…(13)

すべてを変えた あの日…(13)





2012.3.11.14:46

私達は気仙沼お伊勢浜、彼の場所に来ていた。
線香と花と酒、大好きだったたばこに火をつけた。

人々が浜に集まってきた。
この場所に縁がある人々だ。 私達も浜に出た。

そして、サイレンが鳴った。

嗚咽が聞こえてきた。

合わせた両手に力が入った。

[あの日が、夢であったら]

と聞いた言葉が蘇ってきた。









あの時

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すべてを変えた   あの日…(12)

すべてを変えた あの日…(12)



2012.2.28 南三陸に入る。

新しい年が明けた。
雪のなかの被災地。
12:30開店された復興商店街は賑わう。
日曜日だからか、飲食店はずっと混み合っていた。 すれ違ったご婦人から聞こえてきた会話
[ここができたたのは嬉しいけど、あの日が夢であってほしい…]

夕方、陸前高田、大船渡を撮影。



ガレキはほとんど撤去され何もなくなった地面に雪が覆う

始めから何もなかっ

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すべてを変えた    あの日… (11)

すべてを変えた あの日… (11)



6月17日、気仙沼小に向かい、仮設をまわる。前に会ったおばあちゃんだ。日本酒が大好きだという。お元気、お肌もツヤツヤ。
あの日、娘さんがおばあちゃんを下から屋根に押し上げて助かったそうだ。この華奢な体のどこにそんな力があるのだろう…。火事場の馬鹿力といって笑っておられたが、真っ直ぐで芯の強さを感じる見事な書を見せて頂き納得する。そしてとにかく朗らかで高らかな声と笑顔はとても魅力的。

ご主人は

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すべてを変えた あの日…(10)

すべてを変えた あの日…(10)

バナナをありがたく頂いて海岸線に添い傾斜の鋭い坂道をグングン登っていく。

南三陸町大平磯という所。
[給水お願いします]の文字が板切れに書いて立てかけてある。この地区はガレキや水で遮断されていただろう大変な場所だと想像がつく。

看板が気になっていると一軒の家の庭先におばあちゃんが出て来た。
ここは無医村で保健士も来ていないと聞いた。
志津川病院へいっていたが全壊。
おじいちゃんは腰が悪くて家の

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すべてを変えた あの日…(7)

すべてを変えた あの日…(7)

翌日、気仙沼小学へ立ち寄り朱い鳥居がある道へと向かう。途中、夫が急にハンドルを左に切る。もうそこは海だ。[ここ気になるから入るよ]という。今は住人がいないその場所は、海水浴で賑わう風光明媚な所であったと想像できる。

全て流されコンクリートの基礎だけになった土地。そこに色とりどりの花がいくつも塀があった場所に添い植えられている。そこには軽トラが停められていて、男性が三人話しをしていた。

ひときわ

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すべてを変えた あの日…(6)

すべてを変えた あの日…(6)

ここまでの想いを巡らしていた。

悪性リンパ腫末期ガンから生還し、何とか少しずつ生活を取り戻しつつあった夫が感染症の蔓延する国へ苦しむ人々の命を撮影に行ったこと。その後すぐにこの震災で東北の地へ。初めての体験ばかり、そして縁が結ばれていった人々。

結果けとしてなにが残せたのだろう…。活動の最終報告として富士フイルム本社での2週間の写真展示。展示期間の来場者数は19000人。多くの方々に何か少しで

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