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すべてを変えた あの日… (11)

6月17日、気仙沼小に向かい、仮設をまわる。前に会ったおばあちゃんだ。日本酒が大好きだという。お元気、お肌もツヤツヤ。
あの日、娘さんがおばあちゃんを下から屋根に押し上げて助かったそうだ。この華奢な体のどこにそんな力があるのだろう…。火事場の馬鹿力といって笑っておられたが、真っ直ぐで芯の強さを感じる見事な書を見せて頂き納得する。そしてとにかく朗らかで高らかな声と笑顔はとても魅力的。

ご主人はこの仮設の自治会長をされていた。行動力と判断力でまとめあげた団結力の良さ故なのだろうか、集会場所ではイベントがよく催されているようだ。若い時、歌い手だったというお話には驚いたが、確かにいい声だ。
息子さんもカメラマンだと聞いていた。8月に帰るとお会い出来た。一緒に撮影を手伝ってくれた。奥様や娘さん2人とワンちゃん、妹さんたちにもお会いできた。

この息子さんが、モーテルを案内してくれた新聞社の方の後輩であった。


やはりここでもハエの問題で電信柱が真っ黒に埋まっていた。

仮設の奥の棟は日陰な上にハエで真っ黒だ。

小学校に戻りチームに報告し確認に同行した。


翌日は気仙沼市内の中を走っていると、人が多勢集まっている。

古着を配るのを待っている方々だ。

隣の駐車場に車を停め取材に向かう。

あるご婦人は、家は残っているけれど仕事がなく生活が大変だと。1人3着だけど助かるからと。


駐車場に戻り、乗り込もうとすると視線を感じる。

運転席に座ったお母さんに抱かれた赤ちゃんがこちらを見ていた。

思わず近寄った。人見知りしないのか機嫌がよく微笑んでいた。

この母娘との最初の出会いだ。

帰ると彼女たちにも毎回会う。

この子に見つめられたときに、大きくなるのを大人になるのを陰ながら見届けたいと思った。

今は小学一年生、毎年成長する声や写真に時の経つ早さを感じる。

私の心の一部は止まったままだったからなのか?

夏が過ぎた。

10月20日、2時に起き出発。6:20松島に入る。東松島の街、人影がない。

自然の中ではない、こういう人影がない場所では明け方の静けさは不気味に感じられる瞬間がある。剥き出しの住宅の基礎を見ると、営まれていただろう生活を想像する。

大曲、石巻へ。

倒れたままの墓石、陸に上がった船。門脇小学校のなかに入ると置き去りにされたランドセルや靴。ガレキのピラミッド。

何度となく同じ光景を目にし焼き付いてしまった記憶。


翌日、気仙沼、七半沢。

大島を撮影しようと海へ。漁師さんに出会う。

大島を確認しようと訊ねた。ぶっきらぼうな印象を受けたが親切に軽トラから降りて説明してくれた。当時のことを色々と訊ねると、丁寧に答えてくれる。悔しい思い、深い痛みを噛みしめるような言葉で。

お子さんにといって持ってきていたクッキーを渡したとき、険しかった表情が柔らかな相好になった。

彼は家も仕事場も流されて、消防団員として10日間家族と連絡取れず懸命に救助活動をしていた。そしてあの日のことまだ話せないといっていた奥さん。

彼女が自宅をいち早く高台に再建しようと決めたのは、ご主人との再会後、その後のご主人や子供たちの様子を捨て置くことができなかったからだと。言葉で表せないほどのことだと察した。

彼女は肝が据わっている。愛情深い人だ。そして何よりも周りを吹き飛ばすような笑い声!

引きづられるように笑ってしまう。

このご縁も、以後自宅に娘までか犬までも泊めて頂ける家族ぐるみのお付き合いになった。

[今まで他人を泊めたことながったけど、親戚だからね。こっち帰ったら絶対うちに泊まるんだよ!]

何度も甘えさせて頂いた。
毎年年末には手むきをしたカキを送ってくれる。
家族を守ってきた分厚い手のひらを思い出しありがたく彼ら家族の笑顔を思い出しながら頂くのだ。

12月17日、冬の季節を迎えた。 志津川、南三陸、七半沢仮設へとまわる。皆さんお元気に冬を迎えられている。 翌日は気仙沼に向って皆さんにご挨拶にまわる。 

気仙沼の街も道を覚えた夫は我が街のようにスイスイ車を走らせる。 方向音痴の私は置き去りにされたら帰れない。 食事もコンビニかファミレスで済ませていたが、年末の寒い日、私は一杯飲みたいとこちらにきて初めてFという居酒屋さんに入った。 あったかくて、ホッとする。やはり居酒屋はよい。焼き場で串焼きを見守るご主人、飲み物や他の注文を手早くこなす奥様。

あったかい家庭の雰囲気に心が和む。 お客様はみな地元の方ばかり。私達はよそ者だ。雰囲気が違う。 そんなよそ者に、お酒があると仲良くなりやすいのか、話しかけて来てくれた。

 一人は造船所で働く船大工さん、一人は日本建築の大工さんだ。 一滴も飲んでいない夫と話が盛り上がり再会する約束をしていた。

 後日改めてこの居酒屋で大工さんのM氏から当時の話を聞いた。 彼の苦しい胸のうちに耳を傾けるうちに、よそから来た私達だからこそ話せることができるのかもしれないと感じた。

彼も大切な愛する人を亡くされたのだ。消防団員だった彼は胸まで水に浸かりながら人々を救助した。愛する人も懸命に探し回ったそうだ。彼女の住まいに案内して下さり、お花に囲まれた仏壇、吐露される言葉の奥には未だに彼女が亡くなったと認めたくない想いが感じられる。二人で伊勢神宮に旅する約束もしていたそうだ。

私達は美しく微笑む彼女の写真を預からせて頂いた。 次に再会した時に、夫が伊勢神宮とお二人の写真を合成した一枚を渡した。彼がとても喜んでくれたその笑顔を見られただけで嬉しかった。そして、彼女が大好きだったカサブランカの鉢植えを持っていった。来年も綺麗に咲かせてねと伝えて。 M氏にも帰ると訪ねていった。そして、いつもさりげなくご馳走をして下さった。 

 



船大工のC氏は朗らかで、お酒を飲むとさらに陽気になる。奥様は私と同じ名前で親しみがわく。但し、彼女はすごい美人だ。

彼は快く気仙沼第一号の船の進水式の撮影をする手配を整えてくれた。進水式には奥様と一緒に見学にいった。船を作り上げたご主人はじめ職人の方々が自信いっぱいの笑顔で誇らしそうに進水を見守っていた。くす玉とお神酒を浴びた船も華々しかった。 それから何度かM氏とも一緒に、C氏、C氏の奥様と三人でこの居酒屋で会い夫と世代も一緒なのでいい友達になっていった。

 彼等は、この震災の写真を六本木の富士フィルム本社で展示した時に、その為に気仙沼からきてくれた。気仙沼小の仮設からは自治会長ご夫妻、撮影手伝って下さったカメラマンの息子さん、古着を配る駐車場で出会った母娘とご主人、南三陸港地区避難所で出会ったTご夫妻の関東にお住まいの娘さん。福島のダンススクールの先生。彼等とはこの震災がなければ、この撮影取材にきていなければ出会わなかった。

 こちらで出会った方々は言葉は少ないが、心が繋がるとどこまでもあったかく深く太く受け入れてくれた。家族のように。私達はそのぬくもりを求めて何度も足を運び、彼等に支えてもらっていたのだ。

三年間、通い続けた。二カ月後、三カ月後、半年後とだんだん距離があくようになった。実際に少ない蓄えを投入して始めたが枯渇し始め、自分たちの生活もままならなくなってきた。
帰りたくてもその余裕が無くなったのが正直なところだ。自分たちの生活を立て直すことを余儀なくされ今に至る。

ただ、当初からこんな日がくることを予想と覚悟はしていた。
 私達は初めて現地に入った時に、
[あなた達は帰る家があるからいい]という言葉が突き刺さった。
 それは重かった。私達はこれから取材していくのに、どれだけ彼等の心に近づけるかができなければ、表面だけの記録は要らないと話し合った。

自分たちだけが安心して暮らせる中から、少しでも彼等の状況に近づいていかないといけない。
彼等の喪失に及ばないと思うが、私達も無くしていくことをしながら記録を撮ろうと夫と誓った。

 兄弟が多く貧しい家庭に育ち、自力で道を拓きトップに上り詰めた夫は末期癌から生還し、人生を生きなおそうとこの撮影に全身全霊で臨んでいた。
比べて彼の境遇に比べたら温室育ちの私には何もかも新しい挑戦ばかりで正直苦しいことが多かった年月だ。
その違いはあれど、こちらに帰りたいと彼等に会いたいと思う心の底にある想いは同じであった。

それは自分たちがこの世に生きているという実感を彼等からもらっていたからだ。 生きるとは?生かされるとは?死とは?家族とは?人間とは?自然とは? ?????の答えを求めていた。 

あなたの心に翼あることばの一つ一つが届いて和らいで解き放たれていきますように。 サポートよろしくお願い致します✨