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すべてを変えた あの日…(6)

ここまでの想いを巡らしていた。

悪性リンパ腫末期ガンから生還し、何とか少しずつ生活を取り戻しつつあった夫が感染症の蔓延する国へ苦しむ人々の命を撮影に行ったこと。その後すぐにこの震災で東北の地へ。初めての体験ばかり、そして縁が結ばれていった人々。

結果けとしてなにが残せたのだろう…。活動の最終報告として富士フイルム本社での2週間の写真展示。展示期間の来場者数は19000人。多くの方々に何か少しでも伝わったものがあったのだろうか…。

夫も私も心の目と耳で感じて彼らに向き合ってきた。
想いをそのまま知ってもらえるように努めてきた。
十分にできたかどうかはわからない…。
それでも私達はただ伝えるのが役目だから
写真と言葉を持たされた。
彼らの心の奥にあるものを伝えたい。
それが伝えるということだから。

5月25日、午後15:30再び盛岡へと出発した。宮古のモーテルに宿泊。

翌日は再び山田町へ向かった。



お昼休み、大沢小の子どもたちと再会した。
覚えていてくれた…。
また一時でも笑みを交わせてほっとした。
子どもたちに再び会えたことがただ嬉しかった。

そのまま午後は吉里吉里中学校を訪ね、野球少年3人に約束の写真を持っていった。

伸びていた髪が坊主頭になっていた。
会った時より少しだけ大人びた印象。
彼らはどんな記憶を刻み付けて目の前にある大人への階段へと向かうのだろう。

釜石、大船渡へ向かう。
大船渡モーテル泊。


この夜に津波にのまれる夢を見た。

坂道を自転車で猛スピードを上げながら下っていくが真っ黒い津波が追いついてくる。

黒い影が背中に覆い被さり、あーっと言いながら飲み込まれ、その瞬間に自転車ごと飛んで消えた。そして気がつくと今度は崩れた家の屋根を歩いていた。足の感触が残っていた。



翌日は陸前高田へ。陸前高田病院を撮影していた。そこに初老の野球帽を被った男性が一人
車から降りてこられ、話しかけてきた。

私達は支援チームのオレンジ色のジャンバーを着ていた。それを見つけて話しかけてこられたのだ。その方は今は北海道におられるM医師とおっしゃった。
何も教訓を学んでいないと悔しさと怒りのお話を聞いた。阪神淡路大震災でご自身も被災されながら救援活動をされた。9.11でも救援活動をされたそうだ。

当時、阪神淡路の震災のときの甚大な被害から学んだことを記録をして残したそうだが、この被災地の様子を見るとそれが役に立っていないと感じたそうだ。悔しいと何度もおっしゃっていた。

現地でも支援が行き渡っていないところを単独で回っておられると聞き、私達にもそういうところを取材するといいと教えて下さった。
そして記録を残してほしいと。
メモにその場所を書いて頂いた。
見つけなければ。


お互いに励ましあって別れ、私達は気仙沼小学校の避難所へと向かった。

支援メンバーの方々の活動を撮影、仮設も廻られているのを同行取材。

この仮設は阪神淡路大震災の時に使用されたものだそうだ。

看護師さん二人、一軒ごとに体調確認に声をかけられる。慣れた手つきで体温と血圧を測る。一軒ごとの滞在時間はわずかだが信頼感を感じる視線と会話。ベテランのW看護師さんの何でも受け止めてくれるような大らかさは安心を与えるのだろう。ここでも感じたのは医療を通しての人間同士の心の交流だ。

日が暮れてモーテル探しに走るが真っ暗な上、土地勘がないので暗礁に乗り上げた。

コンビニで土地の方に聞くしかないと駐車して待った。話しかけた方が地元新聞社の方だった。

事情を説明するとご親切に先導して下さりモーテルまで案内して下さった。

名刺を交換した。
数年後に分かったことだが気仙沼出身の知人の先輩だった。縁とは奇なり。

このモーテルは以後、来る度に毎回宿泊した場所だ。こんな状況下、家族連れも受け入れてくれていた。
これから気仙沼を中心に通い続けることになるとは思わなかった。

それも、あの朱い鳥居の先、気になって入った場所で出会った一人の男性が切っ掛けだった。



つづく

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