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歴史コラムニスト、”古代のエネルギーを世の中に!”をテーマに独自の直観力で解説。墓、古…

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歴史コラムニスト、”古代のエネルギーを世の中に!”をテーマに独自の直観力で解説。墓、古墳、城、音楽、食などを楽しみながら全国を行脚します。

最近の記事

命(ぬち)どぅ宝~沖縄慰霊の日に想う~

 今日は沖縄戦が終結して79年目の沖縄慰霊の日である。故郷を持たない私にとって、ご縁ができた沖縄は第二の故郷である!沖縄の墓制や洗骨といった本土にはない葬送儀礼に、これまでの人生で経験したことのない大きなカルチャーショックを受け現在に至っている。なかでも沖縄戦は歴史を考えるうえで余りにも近い過去であり、かつ生々しいので敢えて(戦争遺跡を)避けてきたことは事実である。しかし、今日は特別な日として想うところを記してみたい。  沖縄戦は昭和20(1945)年3月26日、慶良間諸島

    • 日本初の女性天皇の墓~推古天皇陵(大阪府南河内郡太子町)~

       大阪府南河内郡太子町大字山田の地にその御陵(古墳)はある。推古天皇陵、別名を地名から山田高塚古墳ともいう。この地域は飛鳥時代の日本を動かしたスター達が眠る墓が集まる。エジプトファラオの王たちが眠る谷を”王家の谷”と呼ぶが、ここはさながら古代日本の王家の谷であり、実際は王陵の谷と言われている。なかでもこの墓(古墳)はその極みというものであろう。    拝所の右側の高札にはこうある。 推古天皇 磯長山田陵  敏達天皇皇子 竹田皇子墓 推古天皇は第33代天皇であり、日本初の女性

      • 朱塗りの石棺~法隆寺と周辺の古墳~

         法隆寺とその周辺の古墳を訪れた。法隆寺は言わずと知れた”世界最古の木造建築”であり日本で最初に登録された”世界文化遺産”でもある。法隆寺については多くを語る必要もなく、詳細な研究や膨大な文献があり知識はそれらを参照してもらえばよい。今回は法隆寺と周辺にある古墳について、古代の空気感を求めて歩いた、それだけである。  JR大和路線の法隆寺駅北口を降りて、奈良交通バスの法隆寺参道前行きバスに乗る。バスは途中の狭い旧街道?を抜け約15分で終点の参道前に到着する。中宮寺前など途中

        • 物部守屋大連の墓(もののべもりや おおむらじ)

           初夏を思わせる暑い日の昼下がり、大阪府八尾市太子堂にある物部守屋の墓参りをした。近くには聖徳太子(厩戸皇子)ゆかりの寺、大聖勝軍寺(通称、下之太子、しものたいし)もあり、同じく立ち寄ることにした。  その墓は国道25号線(通称奈良街道)の道路沿いに、ひっそりとある。国道沿いなので車の往来が激しく、通行人や自転車も多い。時折、車の列が赤信号で止まると、こちらが墓参りや写真を撮っている姿を、不思議そうに車内から眺めている。行き交う人々にとってこれは誰の墓か?など興味なさそうに

        命(ぬち)どぅ宝~沖縄慰霊の日に想う~

          聖徳太子(上宮王家)関係の少年墓か?~竜田御坊山3号墳(奈良県斑鳩町竜田)~

           奈良県立橿原考古学附属博物館へ見学された方は、駐車場奥にある覆屋を是非、覗いてほしい。大きな石材が合わさっているのがわかる。どうやら蓋と底石のようだ。蓋は四角に刳り貫かれている。古墳の石室みたいだ。奈良県生駒郡斑鳩町竜田にあった竜田御坊山古墳という。詳しい説明板もなかったが非常に重要な古墳であるので紹介しよう。  竜田御坊山古墳、正式には竜田御坊山3号墳という。石室と書いたが正式には石槨という。つまり室(へや)という空間というより、石のBox(箱)程度の空間を「槨(かく)

          聖徳太子(上宮王家)関係の少年墓か?~竜田御坊山3号墳(奈良県斑鳩町竜田)~

          古代豪族の館?~家形埴輪の世界を見る~

           奈良県立橿原考古学附属博物館で開催中(令和6年4月20日(金)~令和6年6月16日(金))の春季特別展”家形埴輪の世界”を見学した。家形埴輪を一堂に集めた展示で全国的にも珍しい企画であろう。そういえば、神戸市五色塚古墳には家形埴輪は見あたらなかった。(34.参照)埴輪に何ら知識のない人でも、立体に復元された家形埴輪を見ればどういう構造をしていたのかは一目瞭然である。とにかく古代の豪族が住んでいた館(家?)であったことがリアルにわかり大変面白いので紹介しよう。  奈良県立橿

          古代豪族の館?~家形埴輪の世界を見る~

          海峡を望む巨大前方後円墳~五色塚古墳(兵庫県垂水区)~

           その雄姿は余りにもインパクトが強く、古墳マニアはもちろん一般の方々も沢山訪れ、全国的に知名度の高い古墳である。今日は晴天であったので明石海峡の海風に打たれたく訪ねた古墳がその古墳(五色塚古墳)である。もっと言えば、古墳を全く知らない方にこそ、是非、一度見学していただきたい古墳なのである。ここに来れば、前方後円墳(keyhole-shaped mounded tomb)を言葉で説明しなくても、一目でわかるということが何より楽しい。  山陽電鉄の霞ヶ丘駅を東へ約300m、徒歩

          海峡を望む巨大前方後円墳~五色塚古墳(兵庫県垂水区)~

          綿津見大神をみた古墳~島根県益田市鵜ノ鼻古墳群G-1号墳~

           鵜ノ鼻(うのはな)古墳群は、島根県益田市遠田町の東西約300m×南北約200m程の半島状に突き出た丘陵上につくられた、石見地方を代表する古墳群(群集墳)である。これは以前に訪れたものであるが、群集墳の中にあってとても気になる古墳(登録上G-1号墳とされている。)があったので紹介しておきたい。  益田市に在住する知人の案内で、この地域で最も多く古墳が集中している(群集墳という)鵜ノ鼻古墳群を見学することになった。この古墳群は1950年に郷土史家の矢富熊一郎氏が開発や鉄道敷設

          綿津見大神をみた古墳~島根県益田市鵜ノ鼻古墳群G-1号墳~

          四天王寺と古墳~破壊された巨大古墳~

           うららかな春の日、恒例「第27回四天王寺春の大古本祭り 2024年4月26日(金)~5月5日(日)開催」へ参加した。いつも何気なく素通りする四天王寺境内を久しぶりにじっくり散策することにした。何故なら四天王寺には創建以前に存在していた(であろう)古墳の痕跡が残されているからである。まずはその前に四天王寺に関して簡単に記してみよう。  四天王寺は文字通り仏教の守り神「四天王:持国天、増長天、広目天、多聞天」にまつわる寺名であるが、そこには日本史のスーパースター聖徳太子(以下

          四天王寺と古墳~破壊された巨大古墳~

          映画『洗骨』にみる死生観~古代における『改葬』~

           映画『洗骨』(照屋年之監督 2018年)を遅ればせながら鑑賞した。沖縄県粟国島を舞台にした映画で、それまで離散していた家族が先祖(ここでは主人公の母親)の『洗骨』という儀式を通じて再会し、家族の絆がひとつになるというものである。沖縄の墓について興味がある小生には大変意義深いもので、その死生観についても考えさせられた。映画『洗骨』からは、家族ドラマの背景として具体的な葬送儀礼の一部始終が描写されている。そこからさらに古代の『改葬』についても触れてみたい。 あらすじはこうだ、

          映画『洗骨』にみる死生観~古代における『改葬』~

          大和大納言 豊臣秀長の城~郡山城(奈良県大和郡山市)~

          敬愛する司馬遼太郎の小説『街道をゆく』「大和・壷坂みち」の中の一節に ー私は城が好きである。  あまりに好きなせいか、どの城址に行ってもむしろ自分はこんなものはきらいだといったような顔を心の中でしてしまうほどに好きである。だからできるだけ自分の中の感動をそらし自分自身にそっけなくしつつ歩いてゆくのだが… まったく同感で、司馬遼太郎先生と同じ心境であることに感動すると同時に自分の城好きに拍車をかける一節となっている。 私も各都道府県に所用がある際には、まず城址を訪ねることにして

          大和大納言 豊臣秀長の城~郡山城(奈良県大和郡山市)~

          世界最長の鉄剣(蛇行剣)~富雄丸山古墳(奈良市)出土~

           2024年3月30日(土)~4月7日(日)の間、奈良県立橿原考古学附属博物館特別展示室にて富雄丸山古墳(奈良市)出土の「蛇行剣(だこうけん)」が特別公開された。公開最終日の4月7日(日)一見の価値あり!と意気込んで見学したので感想を述べてみたい。  この「蛇行剣」、日本最大の円墳(直径109m)である富雄丸山古墳の造出し(墳丘の出っ張り部分)の粘土槨(木棺を粘土で覆う埋葬施設)から出土したもので(他に類例のない鼉龍文盾形銅鏡・だりゅうもんたてがたどうきょう、と共に出土した

          世界最長の鉄剣(蛇行剣)~富雄丸山古墳(奈良市)出土~

          真の天皇陵か!~御嶺山(ごりょうやま)古墳~

           大阪府太子町太子の丘陵頂上部の南斜面にある。夏期は草に覆われ、とても古墳にはたどり着くことは困難だ。見学するならブドウの収穫が終わる秋から冬期しかない。道に迷いながら古墳を”発見”した時の爽快感は、何物にも代えがたい。この古墳、観察すればするほど、とてつもなく凄い古墳であることを知るのである。  石室内部は真っ暗で何も見えない。懐中電灯の明かりで下を照らしてみた。(下写真)石室内には台座のような石材があり、その中央は穴が穿たれていた。何かはめ込むための穴だろうか?しかし、

          真の天皇陵か!~御嶺山(ごりょうやま)古墳~

          日本で一番有名な古墳~石舞台古墳~

           石舞台古墳といえば飛鳥(明日香)、飛鳥と言えば石舞台古墳(高松塚古墳やキトラ古墳の壁画古墳が発見される前までは)という程、超有名な古墳である。なぜ有名なのかは目の前にある巨石に圧倒されるからだろう。歴史や考古学の知識はなくとも、実物を目の当たりにするだけで充分だ。そして、これが自然のものではなく人工の構造物であることに驚くだろう。一人だけの墓であることにもっと驚かされるだろう。結論として、一体誰の墓なのか?という歴史の謎解き、面白さについて直感を駆使して考えてみよう。  

          日本で一番有名な古墳~石舞台古墳~

          北のまほろば~三内丸山遺跡(青森市)~

           縄文遺跡と言えば、今や三内丸山遺跡を外すわけにはいかない。3月中頃でも青森県は雪が積もっていた。外は曇り空、遺跡公園は雪景色と雪国らしいイメージを醸し出していた。三内丸山遺跡が大いに賑わっていた縄文時代中期(約5000年前から4200年前)はこんなに雪があったのかはわからないが、グレーなイメージと遺跡とが妙にマッチしていた。  三内丸山遺跡は、世界遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」として登録されているが、そのうち秋田県の大湯環状列石と共に特別史跡に指定されている。縄文遺跡

          北のまほろば~三内丸山遺跡(青森市)~

          博物館構想の祖~漂泊の旅絵師・蓑虫山人~

           今回は、ゆかりの人物に光を当ててみたい。その人、蓑虫山人(みのむしさんじん 1836~1900)の名を知っている方は少ないであろう。むしろ何という風変わりな芸名であろうか?(本名でないことは承知されよう。)というのが第一印象であろう。その名の如く、かなり変わった方であったようだが、全国各地放浪の旅に出て、各地の古器物(土器や石器等)を収集し、それら(それ以外も多々あり)を絵に残した旅絵師である。青森県を訪ねる際に一度はこの絵を実見したいと思っていた。この人物に興味を得たのは

          博物館構想の祖~漂泊の旅絵師・蓑虫山人~