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大和大納言 豊臣秀長の城~郡山城(奈良県大和郡山市)~

敬愛する司馬遼太郎の小説『街道をゆく』「大和・壷坂みち」の中の一節に
ー私は城が好きである。
 あまりに好きなせいか、どの城址に行ってもむしろ自分はこんなものはきらいだといったような顔を心の中でしてしまうほどに好きである。だからできるだけ自分の中の感動をそらし自分自身にそっけなくしつつ歩いてゆくのだが…
まったく同感で、司馬遼太郎先生と同じ心境であることに感動すると同時に自分の城好きに拍車をかける一節となっている。
私も各都道府県に所用がある際には、まず城址を訪ねることにしている。天守があれば当然登城し城下町の眺めを俯瞰する。この瞬間が至福の時である。まず手始めに大和郡山城(以下、郡山城)を訪ねてみることにしよう。

続日本百名城とある、日本二百名城でもよいのでは
天守曲輪から毘沙門曲輪の石垣を見る
天守曲輪の石垣(西から)

 大和郡山といえば、筒井順慶を思い浮かべる方も多いだろう。時のスーパースター織田信長が登場するまでは、大和郡山は筒井氏が牛耳っていたといってよい。天正12年(1584)順慶が郡山城内で死去後、養子の定次が継ぐことになるが、これまた二代目スーパースターというべき羽柴秀吉が登場すると、僅か1年足らずで伊賀国へ国替えを命じられる。大坂周辺を羽柴一族色で固めるという秀吉の方針である。その後、秀吉の弟羽柴秀長が郡山城に入城することになる。 

整備後(2017年)の天守台隅石
よく見ると円形の加工が…(礎石か?)
地蔵菩薩立像が彫られた石材(通称、さかさ地蔵)

 天正8年(1580)に織田信長の命を受けた筒井順慶は、先祖代々の居城であった筒井城を破却し郡山城に入城した。信長の庇護のもと、約3年で城は完成したがその工程は極めてタイトだったことがわかる。その証拠が上記写真だ。上写真は礎石の石を、下写真は仏像が彫られた石材、その他墓石等を持ち運び石垣に転用していた。城工事(普請という)は突貫工事だ!材料がないから工事は延長となりますでは済まされない。正に”首が飛ぶ”のである。何としてでも石垣の石材をかき集めければならない。石垣普請担当者の心境はいかばかりだったか?ちなみに、天理市にある巨石古墳である塚穴山古墳の石材(天井石か)の一部が石垣に転用されているという。当時は古墳の石材も格好の材料となったわけだ。手あたり次第とはこのことで、巨石があれば古墳であれ墓石であれ、集めたのである。明日生きているという保証が現代より極めて少ない戦国の時代である。先祖供養している余裕もなかったことは想像に難くない。平和ボケしている現代人もこの時代の緊張感が必要な気がするのだが…。

本家菊屋さんの暖簾
菊屋さん正面(西から)
菊屋さん軒先を見る(北から)

 大和郡山の城下町を歩く。柳通りという旧商店街の北端に「本家菊屋」さんがある。創業は何と天正13年(1585)という。25代目店主の方に店のパンフレットを頂く。そこには
 ー弊店祖菊屋治兵衛は、秀吉公の弟君である秀長公に、兄、秀吉公をもてなすお茶会のために珍菓を作るように命じられた。そこで献上した餅菓子が秀吉公に喜ばれ「鶯餅」と命名された。これがお城の大門を出て町人街一軒目の弊店で売られていることから「御城之口餅」と言われ今日に至るー
とあった。

御城之口餅(一人前500円、写真は二人前)
お菓子の型(天井を見る)

 「御城之口餅」を店内で注文する。上品なお菓子だ。直径2.5㎝大のきな粉餅が3個セット+お茶(抹茶ではない)で500円である。創業は天正13年(1585)つまり秀長公が郡山城に入城してすぐということになる。店主にお聞きすると「私で25代目になります。ゆっくり召し上がって下さいね。お金はいただきませんから…」と。この地点でお代は済ませている。さすがに店主の話を真に受けて返金を求める客もいないだろう。(25代続く理由がわかった気がした。)大和郡山に旅した際には一度ご賞味して頂きたい。本日は4月7日、郡山城のお城まつり最終日である。桜は満開だ!
 秀吉公と秀長公の兄弟はお互い助け合い、秀長公は兄、豊臣秀吉政権の屋台骨を支えた。今昔、兄弟で商いをすると揉め事が多く、うまくいかないことが多いというが、理想的な兄弟であったのであろう。
今日はお城まつりで満開の桜を愛で、御城之口餅を食したが、やはり自分は”花より団子”だと思った

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