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朱塗りの石棺~法隆寺と周辺の古墳~

 法隆寺とその周辺の古墳を訪れた。法隆寺は言わずと知れた”世界最古の木造建築”であり日本で最初に登録された”世界文化遺産”でもある。法隆寺については多くを語る必要もなく、詳細な研究や膨大な文献があり知識はそれらを参照してもらえばよい。今回は法隆寺と周辺にある古墳について、古代の空気感を求めて歩いた、それだけである。

法隆寺参道から南大門をみる
舟塚古墳(現況)

 JR大和路線の法隆寺駅北口を降りて、奈良交通バスの法隆寺参道前行きバスに乗る。バスは途中の狭い旧街道?を抜け約15分で終点の参道前に到着する。中宮寺前など途中下車をする人も若干いたが、この日は晴天の日曜日であったせいか、車内は都会の満員電車を思わせるような状態である。ドライバー席の横で立ちながら乗っていたが、途中下車の人が降りるごとにドアから道へ出ないといけない劣悪なポジションとなってしまった。(これも旅の醍醐味と自分を納得させる。)しかし次が最終バス停というのに停車ボタンの音を聞いた時には、腰砕けになったが…。
 本題にもどそう。法隆寺参道前バス停を下車して数分で法隆寺参道界隈の駐車場がある。その中にひっそりと浮島のような土盛りがある。先般、奈良大学が中心となって発掘調査された舟塚古墳だ。今はご覧の通り埋め戻されている。調査によると六世紀後半代の円墳で、埋葬施設には横穴式石室があり多数の遺物(須恵器等の土器、馬具、鉄刀等)が残っていた。残念ながら写真を撮る人は一人もいなかった。法隆寺境内からわずか300m足らずの場所に法隆寺築造前の古墳が存在しているのである。

法隆寺境内説明板
法隆寺境内図
西円堂(八角円堂)
八角形のコーナー(内角135度)
西円堂からみた五重塔

 法隆寺を訪れて西円堂から見学する人は、そう多くいないだろう。拝観コースから外れているので当然なのだが、西円堂から見る五重塔はこれまた格別の姿なのだ。西円堂は八角形の形をとる、いわゆる八角円堂とよばれている。上写真は八角形のコーナー部分だが、当然内角が135度となっている。小高い場所、南に開放する景色や背後からの涼風を受けると、何か?を感じる。八角形は古墳時代の終末期段階での皇族墓のシンボルであるという。つまり八角墳を連想してしまう。この場所に聖徳太子(厩戸皇子)の墓所があっても何ら不思議ではない、というか無いことが不思議なのだ…と直感で思った。(実際?の聖徳太子墓は大阪府太子町の叡福寺境内に所在している。)

東の金堂と西の五重塔(北から)

金堂
五重塔
東院伽藍(夢殿)

 上写真は法隆寺に関する写真を掲載したものであるが、これといって珍しいフォトではない。誰もが撮影する場所だからだ。したがって法隆寺に関係する話をする理由もないが、古墳との比較を考えるうえでの要点をまとめておこう、
法隆寺の創建は推古15(607)年であること。(若草伽藍)
②推古30(622)年に聖徳太子(厩戸皇子)斑鳩宮で没する。
②皇極2(643)年に蘇我入鹿らが斑鳩宮(推古9(601)年造営開始)を焼き討ち(上宮王家滅亡
②天智9(670)年に法隆寺が焼失したこと。(若草伽藍)
③現在の法隆寺である西院伽藍(金堂、五重塔他)は再された可能性が高いこと。
 といった具合である。斑鳩宮と法隆寺が複雑に入り乱れているが、宮殿に隣接して寺院があり焼失したのである。いずれにしても現在の西院伽藍が7世紀後半(690年代?)創建されている。焼失したからといって価値が下がるわけでもない、むしろ現存していることが奇跡なのだ!
 境内には人は少なかったが、回廊や金堂、五重塔を見上げ飛鳥時代の空間を味わう。歴史を考える感性を養う最適の場所と思う。目の前の空間が飛鳥時代そのものなのだから。

藤ノ木古墳(石室公開日の模様)
担当者の説明を受ける

 今日は偶然にも藤ノ木古墳の石室公開日であった。途中で判明したので法隆寺より先にこちらを選んだ。10時の公開時間前だが会場受付にはすでに30名近い人々が詰めかけ、担当者の説明に耳を傾けていた。私は数度見学しているのだが、やはり石室の中に入り”朱塗りの石棺”を実見したい!衝動に駆られていた。薄れていた感性に磨きをかけたかったのである。

藤ノ木古墳(直径50mもある大型の円墳だ)

 30分程度待ち石室内に入る。外気と異なり石室内は冷蔵庫のようだ。正面の玄室奥に”朱塗りの石棺”があった。何度見ても迫力がある。石棺の幅が2.32m、高さが1.52mもある。真っ赤に塗られた石棺を目の当たりにするとそれまで饒舌であった家族ら見学者達は一斉に寡黙になった。ここでの解説は不要、黄泉の国の空間を味わうだけだ。藤ノ木古墳については大部の発掘調査報告書も刊行され、各著名な学者たちが多くを語られているので、法隆寺同様記さないが、これも要点だけまとめておこう、
①古墳は後期(六世紀後半 概ね570~580年代?)に築造されたこと。
②巨大な朱塗りの家形石棺を安置する。極めて稀な未盗掘古墳であること。
③石棺内には男性二人の人骨があったこと。(同時埋葬、病死。不慮の事故?)
⓸巨大な円墳であること。(前方後円墳でないこと。)
⑤世界でも例を見ない馬具(鞍金具他)豪華な出土遺物が多数出土したこと。
である。残念ながら石室内や石棺は写真撮影NGであった。しかしこの目にしっかりとフォーカスさせて頂いた。是非、石室公開日には見学してほしい。

朱塗りの石棺(復元)
西里地区の街並み
春日古墳(南から)

 藤ノ木古墳の近くにある春日古墳を訪れた。会場で係員にこの古墳の場所を聞くと、眉間にしわを寄せ「民有地で見学は困難だ!」という。そう言われればなおさら見学したいという意欲が湧くものだ。藤ノ木古墳から北に歩くこと5分で古墳らしき樹々に覆われた高まりが見える。やはり周辺は敷地内だ。正面から春日社と思しき小祠があったので参拝方々登ってみた。やはりこの角度しか写真は不可能である。この古墳、以前に科学的調査がなされた。素粒子「ミューオン」調査によるもので、盛土内に約6m程の空間が存在していることが判明した。未調査であり年代は不明であるが、この空洞は横穴式石室であろう。つまり藤ノ木古墳と同時代に築かれたものであることが推測されるのだ。

中宮寺本堂

 601年に斑鳩宮、607年に初代法隆寺(若草伽藍)が造営される約30年前には、この地で藤ノ木古墳や春日古墳、舟塚古墳等の古墳がある場所であった。現在の法隆寺がある場所も本来、古墳が存在した気がしてならない。古墳は一旦解体されてべつの場所へ移される。聖徳太子が発願する国家的事業の前には多少の小古墳も立ち退かざるを得ない。しかしそれが否定された古墳が今、現存する古墳たちである。蘇我入鹿によって滅亡された上宮王家の王子の墓も竜田御坊山古墳(36)であるらしい。また法隆寺は聖徳太子の怨霊を鎮める、怨霊封じの寺との説もあるらしいが、これは想像の世界だ。要は法隆寺がある場所ということは、この場所にそれまで何かが存在していた筈である。わざわざ寺院建立に約18万㎡という広大な土地を一から開墾したとは考え難い。しかもその場所は吉地(よい場所)である必要がある。非業の死を遂げた(と思われる)竜田御坊山古墳の少年や、藤ノ木古墳に埋葬されたと言われる二人の人物(穴穂部皇子と宅部皇子?)等、暗いイメージが付きまとうが少なくとも聖徳太子は法隆寺周辺にある各古墳の主は知っていたに違いない。法隆寺の周辺にある古墳は、特別な意味をもつ古墳なのである。
*最後の写真は、聖徳太子の御母穴穂部間人皇后の発願による中宮寺本堂である。ここも写真撮影はNGである。飛鳥時代の彫刻の最高傑作とされる本尊の如意輪観音菩薩(国宝 木造菩薩半跏像)を拝顔させてもらい、母親の病気緩和を祈願した。



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