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27.日本で一番有名な古墳~石舞台古墳~

 石舞台古墳といえば飛鳥(明日香)、飛鳥と言えば石舞台古墳(高松塚古墳やキトラ古墳の壁画古墳が発見される前までは)という程、超有名な古墳である。なぜ有名なのかは目の前にある巨石に圧倒されるからだろう。歴史や考古学の知識はなくとも、実物を目の当たりにするだけで充分だ。そして、これが自然のものではなく人工の構造物であることに驚くだろう。一人だけの墓であることにもっと驚かされるだろう。結論として、一体誰の墓なのか?という歴史の謎解き、面白さについて直感を駆使して考えてみよう。

入口から見た石室

 今では飛鳥観光の定番となっており、徒歩やサイクリングでは必ず訪れるスポットである。昭和初期の飛鳥は、古墳や宮殿跡の石材があちこちに見える、のどかな田園風景が広がっていた。石舞台古墳周辺は大きな2つの石(天井石という)が露出している状況で、古墳という認識はあった。天井の石があまりに大きいので、その昔、狐が踊った舞台ということで(狐塚とも呼ばれていた。)石舞台という名で落ち着いた。しかし何故、狐なのか?(近くに稲荷神社は見られない)それを考えるのも面白いが、先に進もう。荒れ果てていた石舞台古墳に注目したのが当時、日本で最初の考古学講座が創設された京都大学の文学部教授濱田耕作(青陵)博士、その人である。エピソードも面白い。当時の考古学における発掘調査はモノつまり遺物を調査で得ることが中心であったなかで、博士は「遺物あさりばかりしていてはダメだ、これからは遺物ではなく遺跡(遺構という)の構造を研究することが大事だ!」と遺物偏重主義を否定?された。その一言で野ざらしとなっていた古墳が発掘調査(1937年)され特別史跡に指定となり、私達が見学できる現在の環境に至ったのである。

入口から羨道部へ(巨大な天井石)
手前の天井石を横から見る
玄室の奥壁を見る

 石舞台古墳の概要についての情報は豊富にあり敢えて述べない。数字や難しい用語は避けて、とにかく見て感じることが大事だ。約70t以上と推定される巨石を人力でどのようにして運搬したのか?想像してもらいたい。古墳つくりでよく言われるのは、生活に必要な糧となる食料、つまり農繁期には作業せず、農閑期に古墳つくりをしたという説である。農閑期とはいえ素人の農民が、「それでは今から古墳をつくります!」と集まったところで話にならないだろう。そこには古墳の設計者(設計図が必要)、作業員を束ねる職長、土地を掘るための資材の調達(鉄製品の補修他)、資材置場、飲料水や排水、石材を確保する場所からの搬入路(導線)、ケガ人が出た際の医療体制?、食事場や手洗い関係の設置、当然決められた工期もあろう。考えればきりがなく、現代と通じる案件だけに(人のする作業)考えることが楽しくなる。

石の間に▼状の石を咬ませている
同じく▼石

 古墳の石室は本来、漆黒の闇である。この状況を見れるのは現場作業者以外多くはなかった筈だ。上記写真のように▼石を用いて横に目地を通している。つまり上の段の石材を乗せるために水平を確保しているのだろう。本来は▼石を用いず、全ての石材を▨形で整えたかったのかも知れない。(そこまでの加工技術はなかった。というより期間がなかったのか?)

二上山の遠景

 古墳の概要は敢えて述べていない。調べれば誰でも知ることができる、詳細なデータを記したところで最新情報を網羅できるとは思わないからである。それ以上に歴史は現物を見て感じることが大事だ。上記写真は石舞台古墳から西方に見える二上山(ふたかみやまとも言う)である。石舞台古墳に葬られた人物は、蘇我馬子であると概ね決定づけられている。否定的な説がないため有力な説なのだ。当時の有力者という”ありきたり”な解説が限界であることも理解できる。
唯一言えるとすれは、二上山だけが知っている!そう結論しておこう。

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