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四天王寺と古墳~破壊された巨大古墳~

 うららかな春の日、恒例「第27回四天王寺春の大古本祭り 2024年4月26日(金)~5月5日(日)開催」へ参加した。いつも何気なく素通りする四天王寺境内を久しぶりにじっくり散策することにした。何故なら四天王寺には創建以前に存在していた(であろう)古墳の痕跡が残されているからである。まずはその前に四天王寺に関して簡単に記してみよう。

四天王寺境内入口(北東側)
中門と奥に五重塔(南から)
回廊から五重塔を見る

 四天王寺は文字通り仏教の守り神「四天王:持国天、増長天、広目天、多聞天」にまつわる寺名であるが、そこには日本史のスーパースター聖徳太子(以下、厩戸皇子、うまやどのみこ、が正式名。)が登場する。四天王寺の名称の由来は587年の「丁未の乱(ていびのらん)」に始まる。この戦は日本史上最初の大戦で、仏教崇拝者の蘇我氏(厩戸皇子を含む)と反仏教派の物部氏との戦であり、いわゆる宗教戦争と言われている。(実情は皇位継承問題に絡む政権争いが正解とのことであるが詳述しない。)さて、その争いは激戦で、強力な軍団である物部氏に対して、何度も劣勢を強いられた蘇我氏という状況が『日本書記』には記されている。これでは負ける!と判断した厩戸皇子は「白膠木(ぬりで)を切って四天王の姿を作り、自らの頂髪に括り付け、この戦に勝たせていただけたら、四天王を安置した寺を造ります!」と誓って見事、勝利を得た。その後に建てた寺が四天王寺であると伝える。厩戸皇子の様な方(年少だったといわれる。)でも極限状態になると最後は”神頼み”ということになるのだが、平穏に勝ったのではなく逆転劇であったところが日本人好みで面白い。もし物部氏が勝利していれば、厩戸皇子は存在しなかった。つまり物部氏が覇権を取ったということになるのだが…

四天王寺境内の全体図

 四天王寺は、現在の大阪市天王寺区、いわゆる上町台地上に位置する。実は意外なことに大阪市内は古代は海の中であった。古墳時代初頭(4世紀初頭)頃は大阪市内の約60%以上が水面下というのである。実際の陸地は天王寺、難波、阿部野、東住吉、平野、大正各区、つまり上町台地上にある区域のみである。ここからが本題である古墳との関係である。四天王寺が建立される前にはこの台地に何があったのか?という問いである。それには『日本書紀』に登場する記述が参考になる、
『日本書紀』推古天皇元年(593年)是歳条
「この年、はじめて四天王寺を難波の荒陵(あらはか)に造りはじめた。」
とある。難波の荒陵(あらはか)とは古墳なのではないか?ということだ。上町台地は非常に硬い岩盤であり、古墳を造るには抜群の安定性のある土地である。当然、硬い土地を掘り起こすには相当な労力が必要であったことは想像に難くない。残念ながら四天王寺周辺は大都会の真ん中である。ビル、家屋が所狭しと建てられているのでその”痕跡”を見つけるのは難しい。この土地は古代には①難波宮という大宮殿が造営されているし、中世には②石山本願寺という大寺院が、近世にはかの③大阪城が、各時代で巨大建物が造営されている超一等地だったのである。つまり地上から古墳を探すのは無理なのだ。しかし、意外なところにその痕跡はあった。

宝物館西に安置されている「長持形石棺」(南から)
同上(北から)

 上写真は四天王寺宝物館の西側にひっそりと安置されている「長持形石棺」と呼ばれる石棺の蓋部分である。カマボコのような形をしており短い側(短辺約1.3m)に2つの縄掛突起(石棺を移動する際に縄を掛けたとされるが詳細は不明)、長い側(長辺約2.8m)にも2つの縄掛突起があり総計で8つある。また、この石材は兵庫県加古川市から高砂市周辺で産出する「竜山石」といわれる当時の王者(大豪族)の棺に使用されるブランドものなのである。当然、この「長持形石棺」は並大抵の人物の棺ではない。繰り返すが王者の棺なのである。要するに、四天王寺周辺には王者の古墳(全長200mクラス)存在した可能性は高いのだ。(その候補として天王寺公園にある茶臼山古墳?という説があったが調査でもはっきりしていないそうだ。)余談だが石山本願寺の石山という言葉も、古墳の葺石を連想させる。

南門前にある「熊野権現礼拝石」


礼拝石もよく見ると「竜山石」で石室の蓋石か?

 南門の前に「熊野権現礼拝石」という説明板と石柱に囲まれた中に石材が安置されている。ほとんどの人々が無視して通り過ぎる。目の前の巨大な五重塔に目を奪われるのだろう。この石、先程の「長持形石棺」と同じ色にみえないだろうか?そう「竜山石」なのだ。この黄色っぽい石は古墳の石室、竪穴式石室の天井石か石棺の部材であることは間違いない。これも四天王寺周辺に古墳が存在した証なのである。

四天王寺五重塔(右)と、あべのハルカス(左)


賑わう四天王寺の大古本市

 四天王寺の五重塔と「あべのハルカス」を斜めに撮影してみた。現在の五重塔は鉄骨鉄筋コンクリート造りの復元建物(1959年)であるが、往時を偲ばせるには充分なものである。塔の高さは約37mだ。一方、「あべのハルカス」は高さ約300mである。(一時は日本一番の高さであった。)その差は歴然としているが、厩戸皇子が建立した当時は、私たちが今まさに「あべのハルカス」を見上げるような羨望の眼差しで五重塔を見ていたに違いない。
古本市も賑わっていた。この場所に巨大古墳が存在していたということを知るひとはどれだけいるのか?古墳の謎を掘り出すことよりも、今日は古本の”掘り出し物”を熱心に探す人の方が圧倒的に多いらしい。




 







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